2012年10月4日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/04):コトバの重みー外国語を学ぶということ


大学で40年文学講義を行ってきたトアル教授。
定年退職後も週に数回教鞭を取りながら、気楽にA+Sにも5回シリーズで記事を連載していただくことになりました。

仕事の合間の濃い目の5分休憩となりますように…。


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第1回 外国語を学ぶということ】
  
毎年春になると新入生に聞くことがある。それは、何のために外国語を学ぶのかということだ。

学生たちの答えは大体決まっている。会話ができるようになりたい、外国の人と知り合いになって、コミュニケーションがしたい

それは結構。そこで私はさらに質問する。では、外国人と知り合って何を話すのか、どんなことを語り合いたいのか。

そう問い詰められると、あわれな新入生はもう答えられなくなってしまう。そこで私は言うのである。それが君に与えられた課題です、これからの学生生活を通じて人と語り合うべきテーマを見つけなさいと。

たしかに言葉はコミュニケーションのための手段、道具である。だが、語り合うためのテーマがなければ、真の意味でのコミュニケーションは成り立たない。それを考えずに会話が出来るようになりたいといっても、実は意味がないのである。

もうひとつ忘れてならないのは、人は言葉でもって考えるということである。だから外国語を学ぶときには、文字、単語、表現、文法だけでなく、その言語独特の発想法や表現法もあわせて学ぶことになる。

言葉を思想や文化と切り離すことはできない。外国語を学ぶとは、その言語が用いられている国や地域の人と文化を知ることでもある。言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆくそれが本当の意味で外国語を学ぶことなのである。

外国語を学ぶことによって、私たちは他者を知り、私たちが慣れ親しんでいる日本的なものの見方、考え方とはずいぶんとちがった世界を発見する。そのときはじめて私たちは、自分の言葉、自分の文化、自分自身を客観的にとらえることができるようになる。

他者との比較なしには自己を知ることはできない。そのままでは見ることができない自分の姿を、他の言語・文化という鏡に映すことによって見るそこまでいった時、その外国語は「私の言葉」となったと言えるだろう。


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【ここからがA+Sのコメント!】 

外国語を大学レベルで学んだ方は、おそらく同じようなメッセージを受け取ったに違いない。特に、前半部分は良く聞く話だ。またこの話?と思った方もいるに違いない。

でも私がちょっとうなったのは、『言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆく』、という下りだ。

これまで私は外国語をツールとして持てば『世界が見えてくる』と思っていた。
実際、それがファーストステップなのだろう。

そして、最初に意味ある文章を自分から発することができるようになった時点から、世界に自分を開いてゆくことになる。ちなみに、これは、外国語に限ったことではなく、日本語においても同様だ。

でも、それは若葉マーク付きで運転しているのと変わらない。まだまだ全体が感覚的に見えていなくて、前方不注意。

プップー。あ、ごめんなさい!
ガシャ!ひ~、車体かすった~!

そうやって、自動車学校で教わった基本ルールを守る努力をしながら、大きな事故を避けながら、前進する。
ただ、恐る恐るでも、あるいは恐れはこれっぽっちもなく、運転してみた人が当然ペーパードライバーよりもうまくなる。

語学力というのも、そんなふうに多少失敗しながら習得するものだと思う。

そして自分を開いてみた見返りとして、他者を知り、自分自身を知る。

少し話はずれるが、先日、MBAの授業に潜り込み、Management Decision-Makingというクラスを受けた。後日内容についてはもう少し紹介したいと思うが、その際に「メタファーの重要性」が挙げられていた。

どのようなメタファーで世界を見ているかが感情面での状況理解を形作る。例えば、「やってたプロジェクト、ばっさり切られたぜ」と言った場合は、戦争メタファーでそのプロジェクトの世界を見ている。勝つか負けるか、というところに感情が自ずとフォーカスする。

それと同じ発想で、この「見えてくる」という受け身の姿勢から、「世界に自分を開いてゆく」という能動的なメタファーを用いることが、どれだけ語学学習に関する見方を変えるか。

自分の手で扉を開けたら、何だか明るい世界が広がってみえる。それが「世界に自分を開いてゆく」から私が見たイメージだった。

「相手が日本語が話せないから英語(あるいは他の言語)を学ぶしかない」

ではなく、

「英語を学ぶことで、違う言葉を通して自分を開いていくことで、より自分自身の考えも明確になる」、少し先にそういう目標を感じられるなら、語学学習の意味や価値がより深みを持つような気がする。(そして運転メタファーで考えれば、いつか自分も外国語をツールとして使いこなせるとも感じられるのではないか。)


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