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2012年10月16日火曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/15):企画を終えて


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 企画を終えて】


今回は初めての企画として「コトバの重み」というテーマで「外国語を学ぶということ」「翻訳者は裏切り者?」「創意を持つには」というテーマで仏文学の観点からトアル教授から記事を提供してもらった。少し固い内容で予定より長い連載となったが、何らかの形で5分の隙間時間の充実につながっていれば、と思う。

少し主題からずれたものの、対談中にグローバル化についても話題が及んだ。

そもそも、長い目で見たとき、人間の歴史自体が「グローバル化」の歴史とも言える。人間の活動は、当初はごく限られた狭い場所・地域の中だけで営まれていたのが、やがて領域を広げていき、ついには今日のように、人・もの・金・情報が国境をやすやすと越えて行き来するようになる。

グローバル化している、という状況を人に当てはめたとき、「自分の生きる(学ぶ、働く、活動する、etc.)場が、日本という国の中だけに限定されていないと考えている人、人と人との関係においても、日本人・外国人という区別にとらわれず、友人や同僚として付き合い一緒に何かをすることを特別のことと思わない人」という状況と捉えることができる。

その対極として「日本好き」「内向き」というような表現が使われたりするが、「グローバル」であるということと、「日本好き」「内向き」であるということは両立する。というよりも、外に向かうだけではなく、内側にも目を向けられるということ、自分の足下をしっかり見据えつつ、外に対して開かれているということ、それが望ましいあり方ではないか。

そうであるなら、『グローバルである』ことと対照されるのはむしろ『自己閉鎖』あるいは『外の世界・他者に対する無関心』と言った方が正しいかもしれない。もしも『グローバル人材』がひたすら外に向かうだけで内側には無関心であることを意味するのであれば、そこには自己を見失う危険が常につきまとう上、『他者に対する無関心』の状態にあるかぎり、自分自身を客観的に見つめることもできない。

「グローバルである」ということは、単に海外に長く住んだということや、言葉を自由に操ることができる、というだけではない。海外を知っているだけでも足りない。今回はコトバを軸にし考える企画だったが、そんなことも考えるきっかけとなった。


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2012年10月12日金曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/12):トアル先生との対談③


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談③】
  

(前号からの続き…)

A+S:《創意》というテーマの講義もありましたよね? それについて少し膨らませてお話しいただけませんか。

トアル:講義でも言いましたが、私は《模倣》あってこその《創意》と考えています。

 フランスの場合でいえば、17世紀以来、古代ギリシャ・ローマの学問・芸術を《模範》とする古典主義が、文学・芸術活動の規範となっていました。その絶頂期には多くの優れた作品が生み出されましたが、古典主義を代表する作家たちは、古典古代(つまりギリシャ・ローマ)をモデルとしつつ、彼らがいま生きている時代にふさわしい文学・芸術作品を創りだそうとしました。古代をただ真似ていただけではありません。古典主義の傑作をじっくりと吟味してさえすれば、それらがどれほど《創意》に満ちているか、よくわかります。(例を示して解説したいところですが、やめておきましょう。これ以上踏み込むと、何回分かの講義がさらに必要になりそうですからね。)古典主義の時代も、作家たちは《模倣》しつつ《創意》を思う存分発揮したのです。つまり、彼らは、新たな時代を彼ら流のやり方で作り上げたのでした。

 しかし、時代がくだるにつれ、古典主義の創造的活力が失われる一方、規範や約束事はそのまま残り、形骸化していきます。それに反旗を翻したのがロマン主義者たちでした。古典主義が古代ギリシャ・ローマをモデルにしたのに対し、ロマン主義はそれとは別の世界 ー 中世・ルネサンスの西欧世界、あるいはギリシャ・ローマ以外のオリエント世界 ー に創造的霊感を求めたのです。

 だからといって、ロマン主義者たちが古典主義の傑作から何も学ばなかったわけではありません。打倒すべき敵に立ち向かったとき、彼らが選んだ戦略は違うものでしたが、手にした武器は同じです。その武器とは言葉つまりフランス語でした。しかもその言葉は、古典主義時代を通じて磨き上げられてきたものにほかなりません。ロマン主義者たちは、敵の手から奪い取ったこの言葉という《武器》を受け継ぎながら、自分たちが見出した《新たなもの》つまり《創意》を付け加えていったのです。

 しかし、そのロマン主義も、まもなく写実主義に取って代わられます。より新しい美学・思想を主張する芸術が現れたわけです。それ以後、次々に《新しい》芸術運動が起こっては消えていきました。《独創性》を主張したロマン主義運動が、形を変えながら今日に至るまで続いている、と言ったらよいでしょうか。

 このような芸術の流れを見て行くと、規範となる《形》があるからこそ中身もあるのだということがわかります。そして、《型》や《形式》をしっかり身につけるための訓練が《模倣》です。ちゃんとした入れ物があって、はじめてその中にまともなものが入れられる、つまり《内容》がともなってくるし、やがて新たな工夫もできるようになる。そこに《創意》が生まれるのだと思います。

 独創性、独自性を主張するのがロマン主義以後の芸術運動の流れですが、それは《逆らうべき》模範や伝統なるものがあるからこそ言えることなのではないか、と私は思うのです。《新しさ》を標榜する人たちが、古典から学ぶべきことを学び、そこから新たなものを生みだす時、芸術における真の《革新》が成し遂げられるのではないでしょうか。


(次号に続く…)

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2012年10月11日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/11):トアル先生との対談②


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談②】
  

(前号からの続き…)

A+S:ところで、教授は、以前、娘さんから『いい歳のおじさんが愛だの恋だのについて語るってどうなのよ?』と、仏文学、しかも古典劇が専門であることを軽く批判されたというエピソードがあるそうですが。

トアル:愛や恋を語るのは、それが昔からフランス文学の大きなテーマだったからですよ。私はフランス文学(もっと厳密に言うと17世紀フランス演劇)が専門で、長いことフランス文学を講義してきました。講義のときは、当然、作品 ー 詩、小説、戯曲 ー についてふれることになるし、さわりの部分を学生といっしょに読んで解説したりもします。

 そこで取り上げる作品には、恋愛が中心テーマになっているものがかなりありますから、避けて通れないわけです。別に、恋愛を賛美するわけではありませんよ。まして、学生をけしかけたりはしません。フランスの小説や劇は、たいてい悲劇的結末を迎えます。だから学生たちには、うっかり真似をしたらこういうことになりますから気をつけてくださいよ、と警告を発するくらいです。

 フランス映画にも同じことが言えますね。不幸な結末、あるいはわりきれない終わり方をよくします。ハリウッド映画がいつもハッピーエンドなのとは大違いです。フランス語に C'est la vie.(セ・ラ・ヴィ ー それが人生というものだ)という言葉があります。人生、いつも思い通りになるわけではない、だから映画でもそのように描くのだというのがフランス流、逆に、だから映画ぐらいハッピーに終わりましょうよというのがハリウッド流ということでしょう。どちらが良いか悪いかではありません。流儀の問題、文化的個性の問題で、どちらを好むかは全くあなたの自由なのです。

 文学講義に話を戻しましょう。そこでは、愛について語るのではなく、たとえば作品に描かれている恋愛心理の分析(心理分析はフランス文学のお家芸なのです)を通じて人間の心の内のありようを考えてみたりします。また、それを描写している文章を取り上げながら、言葉ではあらわしがたい心のひだを、作家や詩人は言葉の《あや》をどのように駆使しつつ表現しているか、というようなことも確かめてみたりもするのです。すぐれた文学作品は、そこに描かれている人間の思い・言葉・行いを通じて、人間とはどういう存在か、そのありようをわれわれに教えてくれます。文学(そして演劇)は、人間を表現し描く、すぐれて人間的芸術なのです。

念のために付け加えておきますが、講義のなかで、愛だの恋だのについてだけ語ってきたわけではありませんよ(笑)。人間にはいろいろな面がありますから、文学作品を読みながら語るべき事はたくさんあるのです。

 第4回の講義で古典について語りましたが、いま話したことは、その補足にもなるでしょう。人間の微妙な《思い》や《考え》を、限られた言葉を使いこなしながら見事に表現している、それがまさにすぐれた作品、つまり古典なのです。


(次号に続く…)

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2012年10月10日水曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/10):トアル先生との対談①


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談①】
  

Analyze + Summarize(以下、「A+S」):トアル先生、4回分の執筆、ありがとうございました。

トアル先生:いやいや、以前書いた記事を再利用しただけなので、べつに苦労はありませんでしたよ。それはともかく、コトバの重みという少し固いテーマだったので、難しそうな話も入ってきましたが、不評は覚悟のうえで、あえてこういうものを投げかけてみました。期待に沿える内容になっていればよいのですが、どうでしたかな?

A+S:いえいえ、固いのが新鮮だというコメントもいただいておりますのでご安心を。ご自身の40年間を振り返ってどうですか? いまでもコトバの新鮮さを感じられますか?

トアル:《いまでも》ではなく、いまはなお一層、コトバの新鮮さを感じるようになってきました、と言うべきでしょうね。その理由を説明するため、ここでは言語能力・言語感覚という言葉を使いたいと思いますが、この能力・感覚は、長い時間をかけて鍛えられ磨かれていくものだからです。

 天才的数学者や詩人は、若くして才能を開花させることがよくありますが、たいていの専門分野は年齢を重ねれば重ねるほど能力が増していくものです。もちろん、年を取ると(とくに筋力などが重要な要素になる分野では)肉体的な衰えからくる《力の衰え》は避けられないでしょう。しかし、達人・名人と言われる人たちは、肉体的な衰えにもかかわらず、老いてなお《道》を極め続けます。日本の伝統芸などでは、よく知られていることですね。まして、文学や言葉 ー 言語能力や言葉に対する感性 ー のように、肉体的な衰えがあまり問題にならない分野だと、経験や知識の蓄積がことのほか重要になります。

 外国語の力、いわゆる《語学力》もそうです。確かに記憶力は、ある年齢に達した後、衰えていくと言われています。だから、外国語は若いうちに勉強をはじめることが強くすすめられているのです。外国語学習は、とくに初級レベルでは、単語や表現をまず暗記すること、言語によっては文字を覚えること、あるいは動詞の変化などマスターすることなどが基本となりますから、記憶力が衰えないうちに勉強をはじめる方が有利なことは確かです。

 しかし、語学の学習は、ある程度のレベルまで達すると、記憶力以外の要素がもっと重要になります。たとえば:
●その言語の基本構造を知ること(早い話が文法を徹底的に勉強すること)
●その言語の習慣や約束事を知ること(つまり歴史的・文化的知識を蓄えるということ)
●その言語を使う人々の思考パターン・行動パターンを知ること(それを知らないと、言われていることの意味がわからなくなることがよくある)
●文章 ー それもしっかりした、内容のある文章、すぐれた文章 ー をできるだけたくさん読むこと(言語感覚、言葉のセンスは、すぐれた文章に接することによって磨かれる)、などなどです。

 実はこれは、外国語学習についてだけではなく、母語の《言語能力》を鍛えるためにも言えることです。さらに言えば、外国語を学ぶことを通じて、はじめて母語を客観的に捉えることができるようになります。「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」(ゲーテ)という箴言さえあるほどです。

 外国語であれ母語であれ、言語能力を高め、言語感覚を磨くには、時間がかかります。時間をかけて力をつける、磨きをかける、そうするうちに以前は見えてこなかったものが見えてくる、わからなかったことがわかってくる。修行という言葉がありますが、まさに修行を積んでいくとはそういうことでしょうね。

 ついでに言えば、若い人たちには、ぜひ外国語を、それも複数の言語を学んでほしいですね。外国語をひとつしか知らないと、それがまるですべてであるかのように錯覚してしまいます。外国語=英語、英語=外国語という錯覚に陥っている人がこの国には多すぎますね。その錯覚を矯正するためにも、複数の外国語を学ぶ必要があります。複数の外国語を学び、それらを自分の母語とも比較してみたとき、言語にはそれぞれの個性があり、互いに共通点もあるが違いもいろいろあるのだということが実感できるでしょう。言語の多様性、文化の多様性を知ることは、今日のようなグローバル化する世界ではとりわけ大切なことです。

(次号に続く…)

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2012年10月9日火曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/09):コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第4回 コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


「創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ。よく考えるには方法は一つしかない。それはなにか昔からの検討をへた思想を継承することだ。」(アラン『教育論』五四)

逆説だろうか?

そうではない。前半部で言われていること、とくに「模倣」の大切さは、稽古という言葉になじんだ日本人なら誰でも理屈ぬきで知っていることだ。稽古の基本は「型」の修得にあるが、型は真似ることによって身につけるものである。それが「修業」の常道であり、また型を極めることによって型を抜け出ることができる――つまり模倣の究極にこそ創意がある――という考え方も、われわれには無理なく受け入れられることなのである。

では、後半部は何を言わんとしているのか?

古典に親しみ、古典から学べ、ということだろう。時間を超えて現在にまで伝えられている過去のすぐれた書物が「古典」である。そこには、人間が昔から考えてきたこと、問題にしてきたことが、選びぬかれた言葉や表現によって記されている。人間にとって最も大切なことは何か、その問題に取り組むにはどうしたらよいかを学ぶための最良の手本が古典なのである。

古典はまた、思考力だけでなく、言葉を鍛えるための良き手段ともなる。人間は言葉でもってものを考えると同時に、言葉によって自分の考えを表現するからである。われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる。逆に言えば、言葉で表現できないうちは、まだ考えになっていないということだ。

「良書を読むことは、その著者である過去の時代の最もすぐれた人々と語り合うことであり、しかも彼らがその思想の最上のものをわれわれに示してくれる、よく準備された談話でもある。」(デカルト『方法序説』)

だから、つとめて古典に親しもうではないか。それこそが、よく考える方法を身につける最も効果的な訓練なのだから。

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【ここからがA+Sのコメント!】 

本シリーズ最初の『外国語を学ぶということ』のコメントで、Management Decision-Makingというクラスに参加したことに言及したが、『われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる』という一文を読みながら、今回の講義においてもManagement Decision-Makingとこの関連性を見いだした。

これを機に、以下、Management Decision-Makingの授業で学んだポイントを紹介したい。
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Management Decision-Making:7つのポイント

●Spotlight:人は何かを決断する際、自分の知識や経験から『見えている部分』、要するにスポットライトが当たっている部分にフォーカスする傾向が強い。実はこのスポットライトが当たらない部分にどれだけ自分の意識を傾けることが出来るかが、決断を下す際に重要となる。

●The Linguistic Relativity Hypothesis(言語相対性仮説) : 言葉/言語が世界観を型取る。『The limits of my language are the limits of my world.』(Ludwig Wittgenstein)言葉の広がりが世界の広がりを意味する。

●Metaphors:メタファーは感情面での状況理解を形作る。自分がある状況をどのようなメタファーで捉えているかを理解し、メタファーを変えることだけでも物事の見え方が変わってくる。

●Confirmation bias:人はすでに正しいと思うことを立証するデータや情報を持論の正当化に利用するというバイアスがある。
また、

●Belief persistence:一度信じたことはなかなか忘れられない。

そうであるが故に、
●Naming the cow:自分が(決断の場において)繰り返し遭遇する同じ課題・問題には、名前を付けることで、意識的に見分けがつけられるようにしよう。(『Naming the cow - (多くいる)牛に名前を付けていく』というのはブラジルの表現らしい)

●Meta-knowledge:自分が何を知るかについての知識(メタ知識)は重要。『You overestimate the precision of your knowledge.』自分の知識の限界を知り、スポットライトの当たらない部分があることを認識し、謙遜になることも重要。
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言葉を用いるということは、漠然とした考えを明確化し、状況理解を促すことになる。また、必要な場合はそれに対して具体的にどのようなアクションを取るか作戦を立てる第一歩となることとなる。自分(の傾向、性向)を理解する、セルフノレッジ獲得という根本的な部分で努力を惜しんで、ビジネス書籍やセルフヘルプ系の書籍でテクニックをどれだけ取り入れたとしても、うわべだけの取り繕いとなってしまう。とはいっても、自己理解というのは一日ウンウン考えたから得られるものではない。長い時間をかけて、去年よりも今年、今年よりも来年、と時間の経過に助けられながら得るものだ。だからこそ、まずはその重要性を意識的に認識することが大事なのではないか。

そして新しいものを創造していくためには、まずは過去から生き残ってきたものをじっくり吟味し、そこで得られるエッセンスを十分に吸収してまずは『型』を作る。それが新たなものを生み出す基盤を作る。文学であれば古典を読むことがそれに相当する。(この点については、明日以降のトアル教授に対談でも少し補足してもらっている。)

高校生のころ読んだ本も、大人になった今読むと、その深みに圧倒されることがある。直結していないようで、文学に親しむことも実はビジネス面での自分の成長を促すことになるということだし、私もビジネス本は少し横に置き、今一度、昔好きだった文学をまた読もうという気になった。

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2012年10月8日月曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/08):コトバの重みー翻訳をする人へのアドバイス②8つのポイント


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第3回 翻訳をする人へのアドバイス②8つのポイント】


1.原文の流れ-語順、語・句・節がでてくる順序-をできるだけ尊重し、その順序に従って翻訳するように、ということです。日本語の特性上、どうしても「ひっくり返して訳す」しかない場合もありますが、そうせずにすむならその方がよいです。日本語と英語・フランス語ではシンタクス(注:文法構造上の決まり)上の語順が違うことは確かです。それを無視して原文の語順を100%守ることはできません。しかし、意味グループ(句・節など)という単位を考えれば、できるだけ原文の流れに従うべきです。どの言語でも、読み手(聞き手)は最初に出てくる情報にまず反応し、そしてそのあと次々とでてくる情報を受けとめ、最後に示された情報を得たところで、はじめてそこで語られたことの内容全体を把握し、総合することになります。情報が示される順序は大切です。

2.原文は一文でも、日本語としての調子を整えるためには、二つ(ときには三つ)の文に分けて翻訳することも必要です。とくに長い文の場合、あるいは1のアドバイス(原文の順序をできるだけ尊重する)に従おうとする場合は、二つ(ときには三つ)の文に分けて訳すのが重要なテクニックです。その逆に、原文は二つあるいは三つの文になっていても、一つの文にまとめて翻訳した方が良い場合もあります。 (日本語を英語やフランス語に訳すときにも同じことが言えます。)

3.原文にある単語でも、思い切って省略した方がよい場合があります。とくに別の言葉に言い換えたり、説明を付け加えているような場合は、訳語・訳文では言い換えや説明の必要がないことがよくあります。 逆に、原文にはないが、日本語に翻訳する場合には言葉を補ったり説明を加えたりすることが必要になるケースもあります。読者がいちいち原文を参照するわけではありません。日本語の訳文だけを相手に読む一般読者の理解が及ぶ範囲を想定しながら、必要と判断したときは、削除したり付け加えたりすべきです。

4.フランス語ではよく「言い換え」をします。たとえば、ニコラ・サルコジ→「共和国大統領」→「国家元首」などなど。同じ単語を繰り返し使うことには抵抗があるわけです。しかし、それをそのまま翻訳すると、日本人の読者には不自然でわかりにくくなることがあります。日本語としては言い換えない方が自然なときは、むしろわかりやすさを選びましょう。日本語では、同じ単語を繰り返し使うことに抵抗感はあまりありません。もちろん、語彙の貧困ゆえに、何でもひとつの形容詞で済ませるのは、まさに「貧困」としか言いようがありませんが。

5.「言い換え」に限らず、その言語特有の「くせ」「習慣」「文章作法」が日本語になじまないときは、無理して相手に合わせるのではなく、不自然でない日本語に訳しかえるよう心がけるべきでしょう。

6.代名詞の使い方に気をつけましょう。代名詞はできるだけ使わないようにすることです。「彼は」「彼を」「彼に」「彼の」などを乱発するのは、日本語として失格です。日本語では、主語も、省略できるときは省略するのが自然な文章になります。「彼は・・・。彼は・・・。彼は・・・。」と芸もなく繰り返すのは見苦しいです。

7.辞書にでてくる訳語ではだめなことが多いです。大辞典でも、あらゆる場合に対応した訳語を網羅することはできません。辞書はしっかり調べねばならないし、最適の訳語を探す上でのヒントにもなりますが、その文章の内容にぴったりの訳語は自分の頭の中から見つけ出すしかありません。

8.最後にとくに大事なことを。
翻訳するテキストのテーマ、内容、分野、そのほか関係することについて、できるだけ多くの資料にあたること。多くの知識を蓄えること。内容が深ければ深いほど、また専門性が高くなればなるほど、最後の決め手は「知識」と「教養」です。語学は雑学。日頃から、好奇心旺盛に、新聞・雑誌・本をいろいろと読みあさることです。
しかし、広げるだけでなく、深めることも必要です。深めれば深めるほど、広げることの必要性を痛感します。逆に広げるだけでは、クイズ番組では優勝できるかもしれませんが、深めることの意味を理解することはできません。その意味で、自分の専門分野とか、「強い」分野を持つのは良いことであると同時に必要なことでもあります。
それと、もう一つの決め手は日本語の文章技術。日本語でまともな文章が書けない者が、まともな翻訳などできるはずがありません。そして、まともな文章が書けるようになるための方法は一つしかありません。まともな本を数多く読むこと、それに尽きます。


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連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/06):コトバの重みー翻訳をする人へのアドバイス①翻訳者は裏切り者?


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第2回 翻訳をする人へのアドバイス①翻訳者は裏切り者?】


《Traduttore, traditore》というイタリア語の警句がある。「翻訳者(トラドゥットーレ)は裏切り者(トラディトーレ)」つまり、どんな翻訳も原文を忠実に伝えることはできず、どうしても原著者の意を裏切ってしまう、という意味である。

胸にぐさりとくる警句だ。私は文学以外にもフランス語も教えている。だから、フランス語を日本語に、また日本語をフランス語にうつす作業は日常茶飯事だし、ときには一冊の本をそっくり翻訳することもある。つまり、私も翻訳者のはしくれ、「裏切り者」の一人というわけだ。

たしかに、百パーセント完璧に言葉をうつしかえることは不可能である。なかでも詩は最悪だ。ご存じのように、一篇の詩と相対するとき、私たちは、その詩を形づくっている言葉の意味だけではなく(あるいは意味以上に)言葉のもつ音や響きやリズムも重要な要素として味わう。ところが音とか響きとかはまさに翻訳しようがないのである。だから「裏切り」の度合も、詩の翻訳のときが最もひどくなるわけである。

それなら散文の翻訳はどうだろう。散文の場合は音よりも内容・意味が主になるので詩を訳すほどひどくはないにしても、やはり「裏切り」は避けられない。

歴史、文化、風俗、習慣、生活様式が違えば、ものの見方や考え方も違ってくる。そのため、単語とか表現そのものが、こちら側の、あるいは相手側の言葉に全然ないことがよくあるのだ。

いや、たとえ単語とか表現が双方の言葉に存在していたとしても、「ずれ」はつねに起こりうる。ひとつだけ例をあげてみよう。

《croissant》というフランス語がある。「三日月」のことだが、カタカナにすれば「クロワッサン」つまり三日月の形をしたパンである。私たち日本人には、「三日月」と「クロワッサン」とはまったく別の単語である。だから、この二つの語から連想するものも、それぞれ別だろう。しかも厄介なことに、フランス語の《croissant》からフランス人が抱くはずのイメージは、さらにまた違うのである。

フランス人にとってこの語は、歴史的にはイスラムとくにオスマン・トルコ帝国(とその旗印)を連想させるものだった。さらに付け加えるとこの語は「成長・増大する」という意味の動詞の現在分詞形からきたものだ。また経済「成長」などと言うときに使われる語《croissance》(クロワッサンス)も関連語のひとつで、音からもすぐ連想しそうである。しかし翻訳では、こうしたイメージや意味の広がりを半分も伝えることができない。「三日月」であれ「クロワッサン」であれ、訳語はどれかひとつに決めなければならないし、決めたとたんに、もとのフランス語がもっていた広がりも切り捨てるほかないのである。

以上は、ほんの一例にすぎない。だが、ある言葉を別の言葉にうつそうとすると、今述べたようなことからはじまって、その他さまざまな困難にぶつかるのである。だからといって、私は翻訳が不可能だとは思わない。たしかに、原文に百パーセント忠実な翻訳はありえない。しかし、言葉による伝達ということを考えるとき、同じ言葉であっても、「完全な」意志疎通となると実は容易ではない。

日本人同士が日本語でしゃべっているはずなのにどうも話が通じない。日本語で書いてあるのに、意味がよくわからない。そんな経験は誰にでもあるだろう。外国語の翻訳でなくとも、言葉が人間の思い通りにならないことはよくあるのだ。

けれども私たちは、何かを人に伝えようとすれば、どうしても言葉に頼らざるをえない。それに、私たちは誰でも人に伝えたい、理解してもらいたいと思うことをもっているものだ。そして、その伝えたいことが外国語でしるされているとき、私たちは、翻訳という手段にうったえるほかないのである。

だから、言葉という気難しくて扱いにくい友とはうまく付き合わねばならない。そして、人に伝えようとする「メッセージ」があるのなら、そのメッセージを可能なかぎり正確に伝えようと努力することである。翻訳の場合にはさらに、メッセージが「言葉の壁をこえて」どこまで伝わるか、ということが問われるわけだ。訳者の力量もまさにそこで試されるのである。

ただ、翻訳者が心せねばならぬことがある。程度はともあれ「裏切り」が避けられなないとすれば、なおのこと謙虚でなければならない、ということだ。それに、翻訳者は自己の存在を-できるものなら完全に-消し去る必要がある。語るのはあくまで原著者であって、訳者ではないからだ。

完全を求める努力を惜しんではならない。しかし「完全主義」の魔にとりつかれてもいけない。人間の力に限界があることは謙虚に認めつつ、しかし可能性を少しでも切り拓く努力を続けること、それが大切である。そしてこれは、翻訳に限らず、どんな仕事についても言えることだろう。

「翻訳者は裏切り者」という警句は、学生時代に恩師から教えられたものである。もう40年以上も前のことだ。それ以来この警句は、私の座右の銘であり続けている。


 
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2012年10月4日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/04):コトバの重みー外国語を学ぶということ


大学で40年文学講義を行ってきたトアル教授。
定年退職後も週に数回教鞭を取りながら、気楽にA+Sにも5回シリーズで記事を連載していただくことになりました。

仕事の合間の濃い目の5分休憩となりますように…。


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第1回 外国語を学ぶということ】
  
毎年春になると新入生に聞くことがある。それは、何のために外国語を学ぶのかということだ。

学生たちの答えは大体決まっている。会話ができるようになりたい、外国の人と知り合いになって、コミュニケーションがしたい

それは結構。そこで私はさらに質問する。では、外国人と知り合って何を話すのか、どんなことを語り合いたいのか。

そう問い詰められると、あわれな新入生はもう答えられなくなってしまう。そこで私は言うのである。それが君に与えられた課題です、これからの学生生活を通じて人と語り合うべきテーマを見つけなさいと。

たしかに言葉はコミュニケーションのための手段、道具である。だが、語り合うためのテーマがなければ、真の意味でのコミュニケーションは成り立たない。それを考えずに会話が出来るようになりたいといっても、実は意味がないのである。

もうひとつ忘れてならないのは、人は言葉でもって考えるということである。だから外国語を学ぶときには、文字、単語、表現、文法だけでなく、その言語独特の発想法や表現法もあわせて学ぶことになる。

言葉を思想や文化と切り離すことはできない。外国語を学ぶとは、その言語が用いられている国や地域の人と文化を知ることでもある。言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆくそれが本当の意味で外国語を学ぶことなのである。

外国語を学ぶことによって、私たちは他者を知り、私たちが慣れ親しんでいる日本的なものの見方、考え方とはずいぶんとちがった世界を発見する。そのときはじめて私たちは、自分の言葉、自分の文化、自分自身を客観的にとらえることができるようになる。

他者との比較なしには自己を知ることはできない。そのままでは見ることができない自分の姿を、他の言語・文化という鏡に映すことによって見るそこまでいった時、その外国語は「私の言葉」となったと言えるだろう。


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【ここからがA+Sのコメント!】 

外国語を大学レベルで学んだ方は、おそらく同じようなメッセージを受け取ったに違いない。特に、前半部分は良く聞く話だ。またこの話?と思った方もいるに違いない。

でも私がちょっとうなったのは、『言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆく』、という下りだ。

これまで私は外国語をツールとして持てば『世界が見えてくる』と思っていた。
実際、それがファーストステップなのだろう。

そして、最初に意味ある文章を自分から発することができるようになった時点から、世界に自分を開いてゆくことになる。ちなみに、これは、外国語に限ったことではなく、日本語においても同様だ。

でも、それは若葉マーク付きで運転しているのと変わらない。まだまだ全体が感覚的に見えていなくて、前方不注意。

プップー。あ、ごめんなさい!
ガシャ!ひ~、車体かすった~!

そうやって、自動車学校で教わった基本ルールを守る努力をしながら、大きな事故を避けながら、前進する。
ただ、恐る恐るでも、あるいは恐れはこれっぽっちもなく、運転してみた人が当然ペーパードライバーよりもうまくなる。

語学力というのも、そんなふうに多少失敗しながら習得するものだと思う。

そして自分を開いてみた見返りとして、他者を知り、自分自身を知る。

少し話はずれるが、先日、MBAの授業に潜り込み、Management Decision-Makingというクラスを受けた。後日内容についてはもう少し紹介したいと思うが、その際に「メタファーの重要性」が挙げられていた。

どのようなメタファーで世界を見ているかが感情面での状況理解を形作る。例えば、「やってたプロジェクト、ばっさり切られたぜ」と言った場合は、戦争メタファーでそのプロジェクトの世界を見ている。勝つか負けるか、というところに感情が自ずとフォーカスする。

それと同じ発想で、この「見えてくる」という受け身の姿勢から、「世界に自分を開いてゆく」という能動的なメタファーを用いることが、どれだけ語学学習に関する見方を変えるか。

自分の手で扉を開けたら、何だか明るい世界が広がってみえる。それが「世界に自分を開いてゆく」から私が見たイメージだった。

「相手が日本語が話せないから英語(あるいは他の言語)を学ぶしかない」

ではなく、

「英語を学ぶことで、違う言葉を通して自分を開いていくことで、より自分自身の考えも明確になる」、少し先にそういう目標を感じられるなら、語学学習の意味や価値がより深みを持つような気がする。(そして運転メタファーで考えれば、いつか自分も外国語をツールとして使いこなせるとも感じられるのではないか。)


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