【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 企画を終えて】
今回は初めての企画として「コトバの重み」というテーマで「外国語を学ぶということ」「翻訳者は裏切り者?」「創意を持つには」というテーマで仏文学の観点からトアル教授から記事を提供してもらった。少し固い内容で予定より長い連載となったが、何らかの形で5分の隙間時間の充実につながっていれば、と思う。
少し主題からずれたものの、対談中にグローバル化についても話題が及んだ。
そもそも、長い目で見たとき、人間の歴史自体が「グローバル化」の歴史とも言える。人間の活動は、当初はごく限られた狭い場所・地域の中だけで営まれていたのが、やがて領域を広げていき、ついには今日のように、人・もの・金・情報が国境をやすやすと越えて行き来するようになる。
グローバル化している、という状況を人に当てはめたとき、「自分の生きる(学ぶ、働く、活動する、etc.)場が、日本という国の中だけに限定されていないと考えている人、人と人との関係においても、日本人・外国人という区別にとらわれず、友人や同僚として付き合い一緒に何かをすることを特別のことと思わない人」という状況と捉えることができる。
その対極として「日本好き」「内向き」というような表現が使われたりするが、「グローバル」であるということと、「日本好き」「内向き」であるということは両立する。というよりも、外に向かうだけではなく、内側にも目を向けられるということ、自分の足下をしっかり見据えつつ、外に対して開かれているということ、それが望ましいあり方ではないか。
そうであるなら、『グローバルである』ことと対照されるのはむしろ『自己閉鎖』あるいは『外の世界・他者に対する無関心』と言った方が正しいかもしれない。もしも『グローバル人材』がひたすら外に向かうだけで内側には無関心であることを意味するのであれば、そこには自己を見失う危険が常につきまとう上、『他者に対する無関心』の状態にあるかぎり、自分自身を客観的に見つめることもできない。
「グローバルである」ということは、単に海外に長く住んだということや、言葉を自由に操ることができる、というだけではない。海外を知っているだけでも足りない。今回はコトバを軸にし考える企画だったが、そんなことも考えるきっかけとなった。
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