2012年10月30日火曜日

Write There Write Now (2012/10/30):『悪い子』脱却、生業を生きる『良い子』になるには


【今回のテーマ:『悪い子』脱却、生業を生きる『良い子』になるには】

以前会社勤務していたころの知り合いには『つまらなくない?』と聞かれるが、正直毎日が楽しい。

もちろん私を縛っているのはA+Sの優しいリーダー層だけであるので、お気楽極まりないことは確か。誰に叱られることもない。でも、何よりもいいなと思うのは、どんなに小さいA+Sプロジェクトでも自分がいるから成り立っていて、自分が考えることをストップするとA+Sは死ぬ(笑)、という切迫感ある状況。

まだまだこれからやりたいことのアイデアがポツポツと浮かんで来たばかりだし、毎日思うほどコトは進んでいない。読みたい資料もリビューしたい記事もたくさんある。嬉しいことに、だんだんリーダーのリクエストも増えてきた。例えば定期配信。毎日なるべく同じ時間に配信してもらえると、いつアクセスすればいいか分かるので利用しやすいという。あるいはメール配信。会社から読めないので、メールで直接配信してもらうほうが利用しやすいという。ふむふむ。確かにそうだ。まだ十分応えられるだけのキャパシティがないが、段階的にリクエストに答えられるように、自分自身の作業リズムや情報システムも確立していきたい。

給料がなくてもこれだけ働きたくなる(笑)ということを考えると、仕事においての『動機付け』という点を今一度考え直さざるをえないと感じている。

これまでを振り返ったとき、その場で即決してオファーをもらえた仕事や、『明日行きます』と国境を越えて次の日面接に行った仕事では、不満はあっても充実していたし学びも多かった。迷った挙げ句、契約書にサインした仕事は、やはり根本的なミスマッチが拭いきれなかった。もちろん学びは多かったし、そういう環境に身を置くことにも価値があると個人的には感じている。特に当初は予想していなかったような実績が築けたし、人の上に立つこともできた。でも不満タラタラ時代でもあった。

この不満タラタラ時代に、賢い友人Aさんが『生業』とは何か教えてくれた。といってもどうやら前日飲んだという知人Hさんの受け売り。酒の席でふと出て来たこの『生業』という言葉が気になったという真面目なAさんは、翌日しらふになったときに『えっと、ところで昨日生業ってどういう意味で使っていたの?』とHさんにお礼がてらメールで聞いたそうだ。『お前なー、酒の席でのことを翌日に持ち越すなー』と照れ隠しに言いつつも、このHさんも真面目で、文末に『添付参照。』の一言。図式化した『生業』を添付資料として送付してきたという。そしてAさんも『面白かったからプリントしちゃったよー』と、この添付資料を印刷したものを、私と同席していたBさんに見せてくれた。

『仕事』『環境』『人生観』という3つの円の重なる部分が『生業』だそうだ。 そして、その添付資料には『良い子』『悪い子』という例も掲載されていた。(この『良い子』『悪い子』という表現がたまらなくいい。)

『良い子』は、3つの円の重なり部分が大きい。円の大きさも似通っている。だからどれだけ悩んでいても、悩みは円の重なり、つまり生業の部分で起きる。だから安定度が高い。迷っても、悩んでも、それは自分の成長へとプラスにつながる仕組みがある。

そして『悪い子』。3つの円がすべて重なっておらず、円のひとつが大きかったりして、バランスが悪い。悩みは円の重なりを超えてウロウロしており、安定度が低い。(この悩みのウロウロ感も図に描かれていて、面白かった。)これが不満タラタラの構造であり、悩みも迷いも現状脱却につながりにくいネガティブエナジーとなる。

この場にいたAさんBさん2人とも、『俺は「良い子」だ』と断言。仕事は好きだし、環境にも満足しているし、自分の人生観と合致している。そしていつも厳しいコンサルタントのAさんに、『今の君は「悪い子」だね』と私は指摘された。というわけで格好の酒のネタとなり、私の『悪い子』脱却方法をしばし語ったが、まあ結局のところ『人生観』はあまり大きく変わらない。『環境』は少し動かせる。3つの円の重なり部分を拡大するのに一番効果的なのは、『仕事』の円を動かすこと。良い子の2人には何でもない会話だったと思うが、悪い子の私にはグサっと来ながらも、悪い子脱却、『仕事』の円を動かすにはどうしたらいいかにフォーカスすべし、という、具体的な次のステップへのイメージが得られた大事な日でもあった。

働き始めて10年経ち、おそらく死ぬまで働く世代としては、そろそろ『生業』と呼べる仕事をしたい。そして私の場合は海外で生きていることもあり、それに加えて日本とは異なるローカル市場でのリクワイアメントにも応えていく必要がある(それに関しては『個として飛び出すグローバル』でおいおい語るとして…)。

シンガポールに来てからというもの、日系企業には見向きもされないが、外資企業からポツポツと仕事の話が直接来るようになった。また何か面白いことに参画できるといいなと感じているが、今回は『良い子』の仕事をしたい。だからゆったりと次を探そうと思う。そして、A+Sも私を『良い子』にしてくれていると思う。なので相変わらず細々ながらも、継続を目標に日々取り組みたいと考えている。


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2012年10月29日月曜日

Write There Write Now (2012/10/28):旅に出ておりました

シンガポールからはローコストエアラインがオーストラリアまで羽を伸ばしているので、水曜日の午前2時のフライトでシドニーへ行ってきました。(先ほどシンガポールに帰国。)

シンガポールでは何とも思っていなかったけれども、シドニーに着いて、『なんて自由なんだ』と感じました。この国にいると、ルールに従わなければならない、という暗黙のプレッシャーがやっぱりあるんだなあ、と気がつきく瞬間。

でも、オージーの友達曰く、『シドニーはあくせくしていてストレスが多い』。数日間の滞在じゃあ、正直全くそんな風には感じられず。かなり好印象の街でした。

東南アジアにいる間に、東南アジア在住の知人に片っ端から会おうと張り切っていますが、このオージーの友達はなんと12年振りの再会。兄弟がオーストラリアに行ったときに会ったりと、なんだかんだと連絡は取っていたものの、まだ子供の頃の友達だったので多少照れくさい感じでした。そしてフランスの学校時代の知人で数ヶ月前シドニーに転勤になったという人とも会うことができました。

やっぱり旅をしていろんな国を見るべきだなあ〜、と、初心に帰った気分です。

…というのがしばらくA+Sが休刊していた理由です。ゴメンナサイ。

Write There Write Now (2012/10/29):3の波


【今回のテーマ:3の波】

先日、『個として飛び出すグローバル』というタイトルまでは考えついたことを書いたが、オーストラリア旅行中もこのタイトルが頭から離れなかった。

帰国して、まずは念のため、『どこかの誰かのパクリじゃなかろうか』、とグーグル検索してみた。が、どうやらそれらしきものはヒットせず。しめしめ、とりあえずはこのタイトルを使わせてもらおう。
(ちなみに、この検索で「キン肉マンの技一覧」が結果に出て来たのはなぜだろう…。)

少し話はずれるが、私は空港が大好きだ。学生時代も実家と東京の往復や、海外に住んでからも帰国や出張など、海外渡航を一人ですることが多かった。今いる場所と目的地の間の、なんだかとてもニュートラルな場所で、心は目的地、体は現在地、という環境。そこでなぜだか毎回『結局のところ自分が一歩踏み出すしかない』という謎のやる気が出て、何かしら新しい一歩なり決心なりにつなげることができる。今回も移動中あれこれ考え事ができたのも、私の中での『空港』の意味付けのおかげだと思う。

今回は、12年振りに再会した友達のおかげで、当時の自分を思い出し、ここ12年を少し振り返ることができた。
考えてみると、30になった後、『10年ひとむかし』という言葉の意味がやっと分かるようになった、と私は周囲に熱く語っていた。私の場合は、2000年当時の経験のおかげで自分は10年間転がり続けることができた、ということ。そもそもビジネス系じゃなかった私という石を拾ってくれた当時の上司がいて、『ま、どうなるか分からないけどとりあえず転がしてみるか~』、と思ってポイッと投げてくれたことが、まずはひとコロ、にコロコロ、と進んで行くきっかけとなったと思っている。私にとっては会社という環境がとても新しかったし、やる気のある人が周りにいてくれたおかげで、大学生なのに会社で働くなんて、少し大人になった気分がした。感謝、感謝。

そこから転がりだして12年。『転がる石にコケはつかない』、なんて大嘘だ。打撲するは、骨折するは、やけどするわ、本当にコケなんて可愛いものじゃない。まあしかし、どうにかそうやって傷つきながらも転がりながら最近思うのは、その中にある『3の波』。

要領がいいのか悪いのか、私の場合は大抵、『ホップ・ステップ・ジャンプ』と、3ヶ月でひとつのサイクルがあり、これを1年の間で4回繰り返す、完全に四半期決算系だ(コーポレートに長くいすぎたか…)。そして今回振り返ってみて気づいたのが、だいたい3年で一回転するサイクルで進んで来ている。というと、10年ひとむかしではなく、より正確には『9年ひとむかし』あるいは『12年ひとむかし』なのかもしれない。

もちろん、ジャンプしたときにずっこけることもあるので、必ずしも上向きに進んでいるというわけでもなく、時々振り出し近くまで戻ることもある。ただ、自分の生き方の波のようなものの大まかなルールが分かると、『あ~、今はホップ中だし』『ステップで踏ん張ろう』『そうか、ジャンプでずっこけちゃったのね』『今期は赤字決算、来期がんばりましょう』などと、気持ちの上での処理が楽になる。こういうことに気がつくようになり、歳を取ると見えるものがあるんだなあと実感。うん、悪いことばかりではないではないか。

私の大人人生のサイクルは2000年に始まったということは自分では確信している。しかも分かりやすいことに、最初の企業勤務経験は2000年1月スタート。そこからこの3年サイクル、『12年ひとむかし』がそろそろ終わりに近づき、来年から次の3年サイクルが始まると考えると、今はジャンプ中の第4四半期。やばい、年次決算準備をしなければ。中長期戦略策定も発表するタイミング。

今サイクルに飛躍はあるのか。あるいは『尻もちイテテテテ、振り出しに戻る』の歳で終わるのか。そろそろ赤字決算の見通しを発表すべきか?

目下の目標は、とりあえずA+Sをほそぼそと継続しながら、2013年から『個として飛び出すグローバル』企画で記事を書けるように頭の整理や準備をすること。

でもなんせもうすぐ11月。気づいたら来年になってしまう。
急がば走れ。回っている余裕はなさそうなので年末までは走るしかないようだ。

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Write There Write Now(2012/10/23):見えたナリ!


【今回のテーマ:見えたナリ!】

今日、いつも通り今住んでいるコンドミニアムのジムに行った。といってもこれ自体が結構なやる気を要する。エレベータで屋上階に上がり、ビルとビルの間の空中橋を渡り、天井プールの脇を通り、隣の塔に入り込み、エレベータで下り、中庭のプールサイドを歩いてまた別のビルに入り、そこからエレベータで上がってやっとジムですよ、という、移動だけで数分かかる作業。空中の橋と中庭を歩くとき、モワッと暑い空気に触れ、『あ~、温かいな、今日も♩』と思うわけです。年中寒いロンドンから年中暑いシンガポールへの引っ越し。熱気との最初の5分の触れ合いは、今のところ、毎回「♩」がつくぐらい心が弾む。

…と、ここまで苦労して行ったジム。なのに我が特等席のトレッドミルが修理中。「ぬぅ!?」と謎の音を発した後、はっと修理のおじさんの存在に気づく。しょうがないから隣のあれ、空中でこぎながら走るマシン?を利用。コイツのこと、全然好きじゃないし、名前さえ知らない。調べてもやらない。とあたかも「嫌い、嫌いも好きなうち」的な発言をマシンに向かって頭の中でしながら、走り始める。

うーん、何だかリズム崩された気分である。しかし、いつもと違う筋肉を使うことはよろしいことのはず。修理は20分で済むということだったので、20分がんばろう。

そうやって走り始める。多少動きがぎこちないのではないか、と、勝手に自意識過剰にも思う。は~、早く終わってくれ、20分。いつもと同じ音楽でも、違う筋肉を使うと何だか歯車が噛み合ない。頭の中でも変な筋肉を使っている気がする。

「今日は、負けだな。」

勝手に敗北宣言をしたとき、頭の中でモクモクモク~と入道雲が立ちこめて、入道雲がガッツポーズ。バックグラウンドに青空が。

イカン、やっぱり頭の中でおかしい筋肉が働いている。

そうだ、少し、仕事のことを考えよう、仕事だ、仕事。集中、集中。そうすれば20分なんてすぐだ…。

というわけで、いつもは自分に甘い私だが、ちょっと厳しい質問を問いかけてみる。

Analyze + Summarize、今後どうするのさ?
何が売りなわけ?
読者、離れつつない?
もっとガンガン書くべきじゃない?
お金にならなくてもいいわけ?

そもそも、私でなくても日本プラス2カ国経験者なんて、結構いるじゃん?
駐在さんとか、一度海外に出たら海外組になるっていうし…。」

と自分を責め始めると、自己保存本能が動き始め、

…ハッ!

と、ここで今日の気づきがあったわけです。

『個として飛び出すグローバル(仮)』。(すぐタイトルから考える私に、今、絶対Y氏が読んで爆笑していると思います。)

日本の会社に所属しての海外組は結構多い。中には大きなお金を動かしている人たちもたくさんいる。エリートと言われる人たちだ。
10年ひとつの(外)国にずっと住んでいる、その国のベテラン日本人の方もたくさんいる。現地情報は彼らの方がずっと詳しい、ローカルエクスパートと言われる人たちだ。

でも他のカテゴリーにはノマドもいる。ピンでこれだけ海外を住み渡り歩いて結構普通に仕事をしてきた人は少ない。そう考えると、勝手にひとりで外に飛び出した人が、そこで活躍していくには何が必要か、どんな壁や挫折があるか、(どういう面白みがあるか、)そういうことならそこそこの自信を持って語れるような気がする。(ただ、「良い子は真似をしないように…」という話になってしまってはしょうがないが、そこはモノは言いようということか。)

一度、知り合いにこう言われた。「やっぱり海外に来るには、駐在じゃないとね。」
その時は何となく軽く傷ついたものの、本心はそれにも大きくうなずける。だから、出来る限り、守られた駐在で海外には行きましょう。

ただ、生き方や人生で選択を迫られるタイミングは人それぞれ別で、私のようにもう少し戦略的に生きようと決意するタイミングが遅かった場合(しかも結局それ以降も決して賢く生きてこられたわけでもないタイプなのだが)は生き抜くしかない、というサバイバルと化する。結果、だんだん「馬力」とか「根性」とかそういうレベルで力が付くことになる。そういう道ことを選んだ人はこういうことを考えた方がいいですよ、ということは伝えられるかもしれない。

それをどういう形で具体化するか(できるか)はまだ分からないものの、「今日は負けたな。」から「今日もひとつ頑張るか~。」に気持ちが切り替わった。勝手に与える意味付けでも、いいじゃないか。人財教育コンサルタントの村山昇さん(面識はないもののブログを読ませていただいている方です)の「『決意』が人を最も元気にする」(下記リンク)を実感した瞬間だった。

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【関連記事】
『決意』が人を最も元気にする(人財教育コンサルタントの村山昇さんのブログより)
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2012年10月16日火曜日

【記事レビュー】ミャンマー:Long Reliant on China, Myanmar now turn to Japan


Long Reliant on China, Myanmar Now Turns to Japan

記事の紹介
タイトル:Long Reliant on China, Myanmar Now Turns to Japan
出典:New York Times (October 10, 2012)
原文:英語
リンク:


(あくまでもこの記事だけを読んでも理解できるよう、内容を簡単にまとめたものである点、ご了承ください。一語一句正確に知りたい方は是非原文にチャレンジしてください!)


ヤンゴン市内中心部にて、後にピューリッツァー賞を受賞することとなった写真に長井健司氏の最後は納められた。ミャンマーの軍事政権の残酷さを物語る写真だ。長井氏は日本人のジャーナリストで、5年前(ミャンマーの反政府デモを取材中)反政府運動を沈静化しようとする軍に射殺された。この事件は、ミャンマーと日本の関係をこれまでになく悪化させることとなった。

しかし現在では、日本は政府による協力な後押しと民間企業による投資を拡大、過去の独裁主義イメージを払拭したいミャンマーにおいて一気にプレゼンスを高めている。これまでの中国の独占的立場を脅かすまでに至っている。

長井氏が殺害された場所からほんの少し離れた場所にある市役所の4回では、日本のエンジニアが首都ヤンゴン市内の道路、通信網、上下水道整備の建設プランを作成している。

「ミャンマーは復興に力を貸してほしいと言って来ている」、と在ミャンマー日本大使館の丸山市郎公使は話している。ミャンマーのテイン・セイン大統領は東京に赴き、国の再開発の主要プロジェクトを日本に委託することを選んだ。ヤンゴン市の復興に加え、日系企業のコンソーシアムはティラワ経済特区開発および郊外には衛星都市の開発も受注している。

「正直、日本の関与の規模に加え、日本がここまで敏速に対応したことに驚いている」とミャンマー経済に詳しいオーストラリアのマッコーリー大学シドニー校のSean Turnell教授はコメントしている。ミャンマーは、最大の投資元である中国一辺倒から方針を変更し、日本を重要プロジェクトに起用しはじめ、ミャンマーは中国と日本というアジア二大経済大国によるアジア域内でのプレゼンスと影響力拡大に向けた競争の場となっている、とTurnell教授は言う。

中国と日本のミャンマーにおける投資戦略は異なる。日本はミャンマーの低賃金の労働力確保を狙い、タイおよびベトナム、カンボジアのインドシナエリアに加え、ミャンマーにおける工場の増設を狙っている。一方、中国はミャンマーでの天然ガス、宝石類、材木、ゴムなどの天然資源に加え、ダム建設による水力エネルギー確保に目を付けている。しかし中国が資源を搾取しているという印象が反中国の動きは、Monywa銅鉱山でのストライキや昨年のミッソンダム建設の中止などという形で表れている。

マレーシアのCIMB Asean Research Institute(CARI)の最高責任者、John Pang氏は、ミャンマーの日本へのシフトを次のように見ている。「日本に魅力を感じているというよりも、中国への反感が理由。中国自身もこの競争を手放した。ミャンマー政府は日本は脅威と見られておらず、両国政府トップ間も信頼関係を構築することができた。」

アジア他国もミャンマーとの関係改善とビジネス関係強化に動いている。韓国企業やシンガポール企業も同様にミャンマーで活発に動いている。しかし日本のアプローチが最も包括的だ。「過去20年ほど例をみない規模のプロジェクトだ」とプロジェクトに融資するJICAミャンマー事務所長の田中雅彦氏は語っている。日本政府によるミャンマーへの融資は利子1%以下で最初の10年は返済不要、返済期間も50年と、ほとんど寄付に近い内容だ。

当然ながらテイン・セイン大統領はこのチープマネーは魅力的であったはずだが、それよりも他のことに目を向けている。それは2015年の再選だ。銀行、学校、病院やその他施設を含むティラワ経済特区開発を「大統領は2015年までに終了してほしいと要請している」と丸山氏は言い、冗談を含めてこのタイムラインを「ミッション・インポッシブル」と言う。日本財団の笹川陽平氏はミャンマーの貧しい少数民族居住エリアを中心に援助を行っているが、「国民全員が軍事政権からの民主化への移行による恩恵を期待している」とする。テイン・セイン大統領は同様に日本財団に対しても過疎地における学校建設などを含む同財団受注分のプロジェクトの早期終了を希望しているという。

ヤンゴン市内では、日本の影響力の増加を見て取れる。市内のビルボードにはキャノンカメラの広告が見られ、また日本航空、全日空はミャンマーへの直行便を12年ぶりに再開した。

市内のインフラ整備は1948年までの英国統治時代に行われたものだ。老朽化した鉄道網の上を英国製の電車が走っている。ヤンゴン市内の歩道は隙間があって油断ができない。荒廃した上下水道施設は中心部のみに敷設されており、パイプからは水漏れしている状況だ。町の外れには貯水池があり、魚、枝葉やゴミが挿入しないよう竹でできた濾過システムが施されている。

日本政府はヤンゴンの港の波止場6カ所に加え、公共交通機関、発電所の再開、バゴー川の2本目の橋の建築を計画している。
フィージビリティ・スタディが年末頃までに終了した際、おおよその建設費用計算ができるとしているが、10億ドル規模のプロジェクトになる模様だ。その他、日本政府はすでにミャンマーへの延滞債務帳消しあるいは返却期間見直しを発表している。

ミャンマーが地理的に戦略的重要性を持つことは確かだが、日本とミャンマーの歴史的関係も背景も注目を浴びる理由のひとつに挙げられる。第二次世界大戦中の日本軍によるビルマ占領は残酷なものだった。しかし英国からの独立の際のリーダーであったアウンサン(アウンサンスーチーの父親)は日本で訓練を受けたという経緯もある。ミャンマーと日本は、現在の米国とベトナムのように、敵対から友好関係へと関係改善に至った。

日本財団の笹川氏にとっては、ミャンマー復興に携わることには個人的な意味も感じている。戦後、ビルマからの輸入米を食べていたことを覚えている氏は、遅ればせながらミャンマーの日本復興に対する協力への恩返しをしたいと考えているという。

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【関連ニュース記事、ビデオなど】

●急接近する日本とミャンマー、投資加速の舞台裏(ロイター通信、2012年10月5日付)

●ミャンマーで大型インフラ事業拡大 丸紅社長が会見(日経新聞、2012年10月12日付)

●クローズアップ2012:ミャンマーの延滞債務解消 日本企業進出加速へ(毎日新聞、2012年10月12日付)

●進藤隆富の取材後記:経済沸騰!いざミャンマーへ(テレビ東京 2012年10月13日)
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【ここからがA+Sのコメント!】 

最近ミャンマーへの関心が世界中から高まっている。日本人だけではなく欧米人の口からもミャンマーへの関心について話を聞く機会が増えてきた。

そこで私も不勉強を解消すべく、ミャンマー関連の記事を読みはじめたが、日本と海外の記事で気になる点がひとつあった。日本の報道では両国の友好的関係がベースとなり、ミャンマーでのプレゼンスが一気に上がっているという内容が多い。しかし海外の報道を見ると、確かに日本の影響力は高まっている、しかしそれを競争的脅威と感じている国はあまりない、という内容。ひとえに中国による影響の牽制と見るものが中心。

ロイター通信の記事にはグラフがあり、20126月時点でミャンマーへの出資額が最も多い国のランキングは以下の通り。
①中国(約120億ドル)
②タイ(約90億ドル)
③香港(約60億ドル)
④韓国(約30億ドル)
⑤英国(約30億ドル)
⑥シンガポール(約20億ドル)
⑦マレーシア(約10億ドル)
⑧フランス(約5億ドル)
⑨米国(約3億ドル)
⑩インドネシア(約3億ドル)
⑪オランダ(約3億ドル)
⑫日本(約2.2億ドル)
の順となっている。
数字は明記されていなかったのでグラフからおおまかに読み取った。)

今回の日系コンソーシアムの投資および債務帳消しなどの総額は総額180億ドル規模に上ると報道されていたため、確かに日本のプレゼンスは大幅に高まったと言えるが、現時点では欧米諸国は経済制裁をしながらも日本よりも投資額を上回っており、これから急ピッチで投資額増加を行ってくると見られている。

市場参入の狙いも中国と日本は異なる。アフリカ市場同様に、資源確保を軸としている中国に対し、日本は低賃金での雇用を主な軸としている。そのため、中国がミャンマー市場内での競争相手を日本ではなく自国同様に資源確保を目指す他国と見ている可能性も高い。

いずれにしても、これからミャンマーがホットになることは間違いないため、今後も動向を追いかけていきたい。シンガポールからもローコストエアラインが運航していることだし、個人的にも近々是非訪れてみたい国のひとつでもある。



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連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/15):企画を終えて


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 企画を終えて】


今回は初めての企画として「コトバの重み」というテーマで「外国語を学ぶということ」「翻訳者は裏切り者?」「創意を持つには」というテーマで仏文学の観点からトアル教授から記事を提供してもらった。少し固い内容で予定より長い連載となったが、何らかの形で5分の隙間時間の充実につながっていれば、と思う。

少し主題からずれたものの、対談中にグローバル化についても話題が及んだ。

そもそも、長い目で見たとき、人間の歴史自体が「グローバル化」の歴史とも言える。人間の活動は、当初はごく限られた狭い場所・地域の中だけで営まれていたのが、やがて領域を広げていき、ついには今日のように、人・もの・金・情報が国境をやすやすと越えて行き来するようになる。

グローバル化している、という状況を人に当てはめたとき、「自分の生きる(学ぶ、働く、活動する、etc.)場が、日本という国の中だけに限定されていないと考えている人、人と人との関係においても、日本人・外国人という区別にとらわれず、友人や同僚として付き合い一緒に何かをすることを特別のことと思わない人」という状況と捉えることができる。

その対極として「日本好き」「内向き」というような表現が使われたりするが、「グローバル」であるということと、「日本好き」「内向き」であるということは両立する。というよりも、外に向かうだけではなく、内側にも目を向けられるということ、自分の足下をしっかり見据えつつ、外に対して開かれているということ、それが望ましいあり方ではないか。

そうであるなら、『グローバルである』ことと対照されるのはむしろ『自己閉鎖』あるいは『外の世界・他者に対する無関心』と言った方が正しいかもしれない。もしも『グローバル人材』がひたすら外に向かうだけで内側には無関心であることを意味するのであれば、そこには自己を見失う危険が常につきまとう上、『他者に対する無関心』の状態にあるかぎり、自分自身を客観的に見つめることもできない。

「グローバルである」ということは、単に海外に長く住んだということや、言葉を自由に操ることができる、というだけではない。海外を知っているだけでも足りない。今回はコトバを軸にし考える企画だったが、そんなことも考えるきっかけとなった。


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2012年10月12日金曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/12):トアル先生との対談③


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談③】
  

(前号からの続き…)

A+S:《創意》というテーマの講義もありましたよね? それについて少し膨らませてお話しいただけませんか。

トアル:講義でも言いましたが、私は《模倣》あってこその《創意》と考えています。

 フランスの場合でいえば、17世紀以来、古代ギリシャ・ローマの学問・芸術を《模範》とする古典主義が、文学・芸術活動の規範となっていました。その絶頂期には多くの優れた作品が生み出されましたが、古典主義を代表する作家たちは、古典古代(つまりギリシャ・ローマ)をモデルとしつつ、彼らがいま生きている時代にふさわしい文学・芸術作品を創りだそうとしました。古代をただ真似ていただけではありません。古典主義の傑作をじっくりと吟味してさえすれば、それらがどれほど《創意》に満ちているか、よくわかります。(例を示して解説したいところですが、やめておきましょう。これ以上踏み込むと、何回分かの講義がさらに必要になりそうですからね。)古典主義の時代も、作家たちは《模倣》しつつ《創意》を思う存分発揮したのです。つまり、彼らは、新たな時代を彼ら流のやり方で作り上げたのでした。

 しかし、時代がくだるにつれ、古典主義の創造的活力が失われる一方、規範や約束事はそのまま残り、形骸化していきます。それに反旗を翻したのがロマン主義者たちでした。古典主義が古代ギリシャ・ローマをモデルにしたのに対し、ロマン主義はそれとは別の世界 ー 中世・ルネサンスの西欧世界、あるいはギリシャ・ローマ以外のオリエント世界 ー に創造的霊感を求めたのです。

 だからといって、ロマン主義者たちが古典主義の傑作から何も学ばなかったわけではありません。打倒すべき敵に立ち向かったとき、彼らが選んだ戦略は違うものでしたが、手にした武器は同じです。その武器とは言葉つまりフランス語でした。しかもその言葉は、古典主義時代を通じて磨き上げられてきたものにほかなりません。ロマン主義者たちは、敵の手から奪い取ったこの言葉という《武器》を受け継ぎながら、自分たちが見出した《新たなもの》つまり《創意》を付け加えていったのです。

 しかし、そのロマン主義も、まもなく写実主義に取って代わられます。より新しい美学・思想を主張する芸術が現れたわけです。それ以後、次々に《新しい》芸術運動が起こっては消えていきました。《独創性》を主張したロマン主義運動が、形を変えながら今日に至るまで続いている、と言ったらよいでしょうか。

 このような芸術の流れを見て行くと、規範となる《形》があるからこそ中身もあるのだということがわかります。そして、《型》や《形式》をしっかり身につけるための訓練が《模倣》です。ちゃんとした入れ物があって、はじめてその中にまともなものが入れられる、つまり《内容》がともなってくるし、やがて新たな工夫もできるようになる。そこに《創意》が生まれるのだと思います。

 独創性、独自性を主張するのがロマン主義以後の芸術運動の流れですが、それは《逆らうべき》模範や伝統なるものがあるからこそ言えることなのではないか、と私は思うのです。《新しさ》を標榜する人たちが、古典から学ぶべきことを学び、そこから新たなものを生みだす時、芸術における真の《革新》が成し遂げられるのではないでしょうか。


(次号に続く…)

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2012年10月11日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/11):トアル先生との対談②


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談②】
  

(前号からの続き…)

A+S:ところで、教授は、以前、娘さんから『いい歳のおじさんが愛だの恋だのについて語るってどうなのよ?』と、仏文学、しかも古典劇が専門であることを軽く批判されたというエピソードがあるそうですが。

トアル:愛や恋を語るのは、それが昔からフランス文学の大きなテーマだったからですよ。私はフランス文学(もっと厳密に言うと17世紀フランス演劇)が専門で、長いことフランス文学を講義してきました。講義のときは、当然、作品 ー 詩、小説、戯曲 ー についてふれることになるし、さわりの部分を学生といっしょに読んで解説したりもします。

 そこで取り上げる作品には、恋愛が中心テーマになっているものがかなりありますから、避けて通れないわけです。別に、恋愛を賛美するわけではありませんよ。まして、学生をけしかけたりはしません。フランスの小説や劇は、たいてい悲劇的結末を迎えます。だから学生たちには、うっかり真似をしたらこういうことになりますから気をつけてくださいよ、と警告を発するくらいです。

 フランス映画にも同じことが言えますね。不幸な結末、あるいはわりきれない終わり方をよくします。ハリウッド映画がいつもハッピーエンドなのとは大違いです。フランス語に C'est la vie.(セ・ラ・ヴィ ー それが人生というものだ)という言葉があります。人生、いつも思い通りになるわけではない、だから映画でもそのように描くのだというのがフランス流、逆に、だから映画ぐらいハッピーに終わりましょうよというのがハリウッド流ということでしょう。どちらが良いか悪いかではありません。流儀の問題、文化的個性の問題で、どちらを好むかは全くあなたの自由なのです。

 文学講義に話を戻しましょう。そこでは、愛について語るのではなく、たとえば作品に描かれている恋愛心理の分析(心理分析はフランス文学のお家芸なのです)を通じて人間の心の内のありようを考えてみたりします。また、それを描写している文章を取り上げながら、言葉ではあらわしがたい心のひだを、作家や詩人は言葉の《あや》をどのように駆使しつつ表現しているか、というようなことも確かめてみたりもするのです。すぐれた文学作品は、そこに描かれている人間の思い・言葉・行いを通じて、人間とはどういう存在か、そのありようをわれわれに教えてくれます。文学(そして演劇)は、人間を表現し描く、すぐれて人間的芸術なのです。

念のために付け加えておきますが、講義のなかで、愛だの恋だのについてだけ語ってきたわけではありませんよ(笑)。人間にはいろいろな面がありますから、文学作品を読みながら語るべき事はたくさんあるのです。

 第4回の講義で古典について語りましたが、いま話したことは、その補足にもなるでしょう。人間の微妙な《思い》や《考え》を、限られた言葉を使いこなしながら見事に表現している、それがまさにすぐれた作品、つまり古典なのです。


(次号に続く…)

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2012年10月10日水曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/10):トアル先生との対談①


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談①】
  

Analyze + Summarize(以下、「A+S」):トアル先生、4回分の執筆、ありがとうございました。

トアル先生:いやいや、以前書いた記事を再利用しただけなので、べつに苦労はありませんでしたよ。それはともかく、コトバの重みという少し固いテーマだったので、難しそうな話も入ってきましたが、不評は覚悟のうえで、あえてこういうものを投げかけてみました。期待に沿える内容になっていればよいのですが、どうでしたかな?

A+S:いえいえ、固いのが新鮮だというコメントもいただいておりますのでご安心を。ご自身の40年間を振り返ってどうですか? いまでもコトバの新鮮さを感じられますか?

トアル:《いまでも》ではなく、いまはなお一層、コトバの新鮮さを感じるようになってきました、と言うべきでしょうね。その理由を説明するため、ここでは言語能力・言語感覚という言葉を使いたいと思いますが、この能力・感覚は、長い時間をかけて鍛えられ磨かれていくものだからです。

 天才的数学者や詩人は、若くして才能を開花させることがよくありますが、たいていの専門分野は年齢を重ねれば重ねるほど能力が増していくものです。もちろん、年を取ると(とくに筋力などが重要な要素になる分野では)肉体的な衰えからくる《力の衰え》は避けられないでしょう。しかし、達人・名人と言われる人たちは、肉体的な衰えにもかかわらず、老いてなお《道》を極め続けます。日本の伝統芸などでは、よく知られていることですね。まして、文学や言葉 ー 言語能力や言葉に対する感性 ー のように、肉体的な衰えがあまり問題にならない分野だと、経験や知識の蓄積がことのほか重要になります。

 外国語の力、いわゆる《語学力》もそうです。確かに記憶力は、ある年齢に達した後、衰えていくと言われています。だから、外国語は若いうちに勉強をはじめることが強くすすめられているのです。外国語学習は、とくに初級レベルでは、単語や表現をまず暗記すること、言語によっては文字を覚えること、あるいは動詞の変化などマスターすることなどが基本となりますから、記憶力が衰えないうちに勉強をはじめる方が有利なことは確かです。

 しかし、語学の学習は、ある程度のレベルまで達すると、記憶力以外の要素がもっと重要になります。たとえば:
●その言語の基本構造を知ること(早い話が文法を徹底的に勉強すること)
●その言語の習慣や約束事を知ること(つまり歴史的・文化的知識を蓄えるということ)
●その言語を使う人々の思考パターン・行動パターンを知ること(それを知らないと、言われていることの意味がわからなくなることがよくある)
●文章 ー それもしっかりした、内容のある文章、すぐれた文章 ー をできるだけたくさん読むこと(言語感覚、言葉のセンスは、すぐれた文章に接することによって磨かれる)、などなどです。

 実はこれは、外国語学習についてだけではなく、母語の《言語能力》を鍛えるためにも言えることです。さらに言えば、外国語を学ぶことを通じて、はじめて母語を客観的に捉えることができるようになります。「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」(ゲーテ)という箴言さえあるほどです。

 外国語であれ母語であれ、言語能力を高め、言語感覚を磨くには、時間がかかります。時間をかけて力をつける、磨きをかける、そうするうちに以前は見えてこなかったものが見えてくる、わからなかったことがわかってくる。修行という言葉がありますが、まさに修行を積んでいくとはそういうことでしょうね。

 ついでに言えば、若い人たちには、ぜひ外国語を、それも複数の言語を学んでほしいですね。外国語をひとつしか知らないと、それがまるですべてであるかのように錯覚してしまいます。外国語=英語、英語=外国語という錯覚に陥っている人がこの国には多すぎますね。その錯覚を矯正するためにも、複数の外国語を学ぶ必要があります。複数の外国語を学び、それらを自分の母語とも比較してみたとき、言語にはそれぞれの個性があり、互いに共通点もあるが違いもいろいろあるのだということが実感できるでしょう。言語の多様性、文化の多様性を知ることは、今日のようなグローバル化する世界ではとりわけ大切なことです。

(次号に続く…)

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2012年10月9日火曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/09):コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第4回 コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


「創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ。よく考えるには方法は一つしかない。それはなにか昔からの検討をへた思想を継承することだ。」(アラン『教育論』五四)

逆説だろうか?

そうではない。前半部で言われていること、とくに「模倣」の大切さは、稽古という言葉になじんだ日本人なら誰でも理屈ぬきで知っていることだ。稽古の基本は「型」の修得にあるが、型は真似ることによって身につけるものである。それが「修業」の常道であり、また型を極めることによって型を抜け出ることができる――つまり模倣の究極にこそ創意がある――という考え方も、われわれには無理なく受け入れられることなのである。

では、後半部は何を言わんとしているのか?

古典に親しみ、古典から学べ、ということだろう。時間を超えて現在にまで伝えられている過去のすぐれた書物が「古典」である。そこには、人間が昔から考えてきたこと、問題にしてきたことが、選びぬかれた言葉や表現によって記されている。人間にとって最も大切なことは何か、その問題に取り組むにはどうしたらよいかを学ぶための最良の手本が古典なのである。

古典はまた、思考力だけでなく、言葉を鍛えるための良き手段ともなる。人間は言葉でもってものを考えると同時に、言葉によって自分の考えを表現するからである。われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる。逆に言えば、言葉で表現できないうちは、まだ考えになっていないということだ。

「良書を読むことは、その著者である過去の時代の最もすぐれた人々と語り合うことであり、しかも彼らがその思想の最上のものをわれわれに示してくれる、よく準備された談話でもある。」(デカルト『方法序説』)

だから、つとめて古典に親しもうではないか。それこそが、よく考える方法を身につける最も効果的な訓練なのだから。

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【ここからがA+Sのコメント!】 

本シリーズ最初の『外国語を学ぶということ』のコメントで、Management Decision-Makingというクラスに参加したことに言及したが、『われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる』という一文を読みながら、今回の講義においてもManagement Decision-Makingとこの関連性を見いだした。

これを機に、以下、Management Decision-Makingの授業で学んだポイントを紹介したい。
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Management Decision-Making:7つのポイント

●Spotlight:人は何かを決断する際、自分の知識や経験から『見えている部分』、要するにスポットライトが当たっている部分にフォーカスする傾向が強い。実はこのスポットライトが当たらない部分にどれだけ自分の意識を傾けることが出来るかが、決断を下す際に重要となる。

●The Linguistic Relativity Hypothesis(言語相対性仮説) : 言葉/言語が世界観を型取る。『The limits of my language are the limits of my world.』(Ludwig Wittgenstein)言葉の広がりが世界の広がりを意味する。

●Metaphors:メタファーは感情面での状況理解を形作る。自分がある状況をどのようなメタファーで捉えているかを理解し、メタファーを変えることだけでも物事の見え方が変わってくる。

●Confirmation bias:人はすでに正しいと思うことを立証するデータや情報を持論の正当化に利用するというバイアスがある。
また、

●Belief persistence:一度信じたことはなかなか忘れられない。

そうであるが故に、
●Naming the cow:自分が(決断の場において)繰り返し遭遇する同じ課題・問題には、名前を付けることで、意識的に見分けがつけられるようにしよう。(『Naming the cow - (多くいる)牛に名前を付けていく』というのはブラジルの表現らしい)

●Meta-knowledge:自分が何を知るかについての知識(メタ知識)は重要。『You overestimate the precision of your knowledge.』自分の知識の限界を知り、スポットライトの当たらない部分があることを認識し、謙遜になることも重要。
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言葉を用いるということは、漠然とした考えを明確化し、状況理解を促すことになる。また、必要な場合はそれに対して具体的にどのようなアクションを取るか作戦を立てる第一歩となることとなる。自分(の傾向、性向)を理解する、セルフノレッジ獲得という根本的な部分で努力を惜しんで、ビジネス書籍やセルフヘルプ系の書籍でテクニックをどれだけ取り入れたとしても、うわべだけの取り繕いとなってしまう。とはいっても、自己理解というのは一日ウンウン考えたから得られるものではない。長い時間をかけて、去年よりも今年、今年よりも来年、と時間の経過に助けられながら得るものだ。だからこそ、まずはその重要性を意識的に認識することが大事なのではないか。

そして新しいものを創造していくためには、まずは過去から生き残ってきたものをじっくり吟味し、そこで得られるエッセンスを十分に吸収してまずは『型』を作る。それが新たなものを生み出す基盤を作る。文学であれば古典を読むことがそれに相当する。(この点については、明日以降のトアル教授に対談でも少し補足してもらっている。)

高校生のころ読んだ本も、大人になった今読むと、その深みに圧倒されることがある。直結していないようで、文学に親しむことも実はビジネス面での自分の成長を促すことになるということだし、私もビジネス本は少し横に置き、今一度、昔好きだった文学をまた読もうという気になった。

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2012年10月8日月曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/08):コトバの重みー翻訳をする人へのアドバイス②8つのポイント


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第3回 翻訳をする人へのアドバイス②8つのポイント】


1.原文の流れ-語順、語・句・節がでてくる順序-をできるだけ尊重し、その順序に従って翻訳するように、ということです。日本語の特性上、どうしても「ひっくり返して訳す」しかない場合もありますが、そうせずにすむならその方がよいです。日本語と英語・フランス語ではシンタクス(注:文法構造上の決まり)上の語順が違うことは確かです。それを無視して原文の語順を100%守ることはできません。しかし、意味グループ(句・節など)という単位を考えれば、できるだけ原文の流れに従うべきです。どの言語でも、読み手(聞き手)は最初に出てくる情報にまず反応し、そしてそのあと次々とでてくる情報を受けとめ、最後に示された情報を得たところで、はじめてそこで語られたことの内容全体を把握し、総合することになります。情報が示される順序は大切です。

2.原文は一文でも、日本語としての調子を整えるためには、二つ(ときには三つ)の文に分けて翻訳することも必要です。とくに長い文の場合、あるいは1のアドバイス(原文の順序をできるだけ尊重する)に従おうとする場合は、二つ(ときには三つ)の文に分けて訳すのが重要なテクニックです。その逆に、原文は二つあるいは三つの文になっていても、一つの文にまとめて翻訳した方が良い場合もあります。 (日本語を英語やフランス語に訳すときにも同じことが言えます。)

3.原文にある単語でも、思い切って省略した方がよい場合があります。とくに別の言葉に言い換えたり、説明を付け加えているような場合は、訳語・訳文では言い換えや説明の必要がないことがよくあります。 逆に、原文にはないが、日本語に翻訳する場合には言葉を補ったり説明を加えたりすることが必要になるケースもあります。読者がいちいち原文を参照するわけではありません。日本語の訳文だけを相手に読む一般読者の理解が及ぶ範囲を想定しながら、必要と判断したときは、削除したり付け加えたりすべきです。

4.フランス語ではよく「言い換え」をします。たとえば、ニコラ・サルコジ→「共和国大統領」→「国家元首」などなど。同じ単語を繰り返し使うことには抵抗があるわけです。しかし、それをそのまま翻訳すると、日本人の読者には不自然でわかりにくくなることがあります。日本語としては言い換えない方が自然なときは、むしろわかりやすさを選びましょう。日本語では、同じ単語を繰り返し使うことに抵抗感はあまりありません。もちろん、語彙の貧困ゆえに、何でもひとつの形容詞で済ませるのは、まさに「貧困」としか言いようがありませんが。

5.「言い換え」に限らず、その言語特有の「くせ」「習慣」「文章作法」が日本語になじまないときは、無理して相手に合わせるのではなく、不自然でない日本語に訳しかえるよう心がけるべきでしょう。

6.代名詞の使い方に気をつけましょう。代名詞はできるだけ使わないようにすることです。「彼は」「彼を」「彼に」「彼の」などを乱発するのは、日本語として失格です。日本語では、主語も、省略できるときは省略するのが自然な文章になります。「彼は・・・。彼は・・・。彼は・・・。」と芸もなく繰り返すのは見苦しいです。

7.辞書にでてくる訳語ではだめなことが多いです。大辞典でも、あらゆる場合に対応した訳語を網羅することはできません。辞書はしっかり調べねばならないし、最適の訳語を探す上でのヒントにもなりますが、その文章の内容にぴったりの訳語は自分の頭の中から見つけ出すしかありません。

8.最後にとくに大事なことを。
翻訳するテキストのテーマ、内容、分野、そのほか関係することについて、できるだけ多くの資料にあたること。多くの知識を蓄えること。内容が深ければ深いほど、また専門性が高くなればなるほど、最後の決め手は「知識」と「教養」です。語学は雑学。日頃から、好奇心旺盛に、新聞・雑誌・本をいろいろと読みあさることです。
しかし、広げるだけでなく、深めることも必要です。深めれば深めるほど、広げることの必要性を痛感します。逆に広げるだけでは、クイズ番組では優勝できるかもしれませんが、深めることの意味を理解することはできません。その意味で、自分の専門分野とか、「強い」分野を持つのは良いことであると同時に必要なことでもあります。
それと、もう一つの決め手は日本語の文章技術。日本語でまともな文章が書けない者が、まともな翻訳などできるはずがありません。そして、まともな文章が書けるようになるための方法は一つしかありません。まともな本を数多く読むこと、それに尽きます。


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連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/06):コトバの重みー翻訳をする人へのアドバイス①翻訳者は裏切り者?


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第2回 翻訳をする人へのアドバイス①翻訳者は裏切り者?】


《Traduttore, traditore》というイタリア語の警句がある。「翻訳者(トラドゥットーレ)は裏切り者(トラディトーレ)」つまり、どんな翻訳も原文を忠実に伝えることはできず、どうしても原著者の意を裏切ってしまう、という意味である。

胸にぐさりとくる警句だ。私は文学以外にもフランス語も教えている。だから、フランス語を日本語に、また日本語をフランス語にうつす作業は日常茶飯事だし、ときには一冊の本をそっくり翻訳することもある。つまり、私も翻訳者のはしくれ、「裏切り者」の一人というわけだ。

たしかに、百パーセント完璧に言葉をうつしかえることは不可能である。なかでも詩は最悪だ。ご存じのように、一篇の詩と相対するとき、私たちは、その詩を形づくっている言葉の意味だけではなく(あるいは意味以上に)言葉のもつ音や響きやリズムも重要な要素として味わう。ところが音とか響きとかはまさに翻訳しようがないのである。だから「裏切り」の度合も、詩の翻訳のときが最もひどくなるわけである。

それなら散文の翻訳はどうだろう。散文の場合は音よりも内容・意味が主になるので詩を訳すほどひどくはないにしても、やはり「裏切り」は避けられない。

歴史、文化、風俗、習慣、生活様式が違えば、ものの見方や考え方も違ってくる。そのため、単語とか表現そのものが、こちら側の、あるいは相手側の言葉に全然ないことがよくあるのだ。

いや、たとえ単語とか表現が双方の言葉に存在していたとしても、「ずれ」はつねに起こりうる。ひとつだけ例をあげてみよう。

《croissant》というフランス語がある。「三日月」のことだが、カタカナにすれば「クロワッサン」つまり三日月の形をしたパンである。私たち日本人には、「三日月」と「クロワッサン」とはまったく別の単語である。だから、この二つの語から連想するものも、それぞれ別だろう。しかも厄介なことに、フランス語の《croissant》からフランス人が抱くはずのイメージは、さらにまた違うのである。

フランス人にとってこの語は、歴史的にはイスラムとくにオスマン・トルコ帝国(とその旗印)を連想させるものだった。さらに付け加えるとこの語は「成長・増大する」という意味の動詞の現在分詞形からきたものだ。また経済「成長」などと言うときに使われる語《croissance》(クロワッサンス)も関連語のひとつで、音からもすぐ連想しそうである。しかし翻訳では、こうしたイメージや意味の広がりを半分も伝えることができない。「三日月」であれ「クロワッサン」であれ、訳語はどれかひとつに決めなければならないし、決めたとたんに、もとのフランス語がもっていた広がりも切り捨てるほかないのである。

以上は、ほんの一例にすぎない。だが、ある言葉を別の言葉にうつそうとすると、今述べたようなことからはじまって、その他さまざまな困難にぶつかるのである。だからといって、私は翻訳が不可能だとは思わない。たしかに、原文に百パーセント忠実な翻訳はありえない。しかし、言葉による伝達ということを考えるとき、同じ言葉であっても、「完全な」意志疎通となると実は容易ではない。

日本人同士が日本語でしゃべっているはずなのにどうも話が通じない。日本語で書いてあるのに、意味がよくわからない。そんな経験は誰にでもあるだろう。外国語の翻訳でなくとも、言葉が人間の思い通りにならないことはよくあるのだ。

けれども私たちは、何かを人に伝えようとすれば、どうしても言葉に頼らざるをえない。それに、私たちは誰でも人に伝えたい、理解してもらいたいと思うことをもっているものだ。そして、その伝えたいことが外国語でしるされているとき、私たちは、翻訳という手段にうったえるほかないのである。

だから、言葉という気難しくて扱いにくい友とはうまく付き合わねばならない。そして、人に伝えようとする「メッセージ」があるのなら、そのメッセージを可能なかぎり正確に伝えようと努力することである。翻訳の場合にはさらに、メッセージが「言葉の壁をこえて」どこまで伝わるか、ということが問われるわけだ。訳者の力量もまさにそこで試されるのである。

ただ、翻訳者が心せねばならぬことがある。程度はともあれ「裏切り」が避けられなないとすれば、なおのこと謙虚でなければならない、ということだ。それに、翻訳者は自己の存在を-できるものなら完全に-消し去る必要がある。語るのはあくまで原著者であって、訳者ではないからだ。

完全を求める努力を惜しんではならない。しかし「完全主義」の魔にとりつかれてもいけない。人間の力に限界があることは謙虚に認めつつ、しかし可能性を少しでも切り拓く努力を続けること、それが大切である。そしてこれは、翻訳に限らず、どんな仕事についても言えることだろう。

「翻訳者は裏切り者」という警句は、学生時代に恩師から教えられたものである。もう40年以上も前のことだ。それ以来この警句は、私の座右の銘であり続けている。


 
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2012年10月4日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/04):コトバの重みー外国語を学ぶということ


大学で40年文学講義を行ってきたトアル教授。
定年退職後も週に数回教鞭を取りながら、気楽にA+Sにも5回シリーズで記事を連載していただくことになりました。

仕事の合間の濃い目の5分休憩となりますように…。


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第1回 外国語を学ぶということ】
  
毎年春になると新入生に聞くことがある。それは、何のために外国語を学ぶのかということだ。

学生たちの答えは大体決まっている。会話ができるようになりたい、外国の人と知り合いになって、コミュニケーションがしたい

それは結構。そこで私はさらに質問する。では、外国人と知り合って何を話すのか、どんなことを語り合いたいのか。

そう問い詰められると、あわれな新入生はもう答えられなくなってしまう。そこで私は言うのである。それが君に与えられた課題です、これからの学生生活を通じて人と語り合うべきテーマを見つけなさいと。

たしかに言葉はコミュニケーションのための手段、道具である。だが、語り合うためのテーマがなければ、真の意味でのコミュニケーションは成り立たない。それを考えずに会話が出来るようになりたいといっても、実は意味がないのである。

もうひとつ忘れてならないのは、人は言葉でもって考えるということである。だから外国語を学ぶときには、文字、単語、表現、文法だけでなく、その言語独特の発想法や表現法もあわせて学ぶことになる。

言葉を思想や文化と切り離すことはできない。外国語を学ぶとは、その言語が用いられている国や地域の人と文化を知ることでもある。言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆくそれが本当の意味で外国語を学ぶことなのである。

外国語を学ぶことによって、私たちは他者を知り、私たちが慣れ親しんでいる日本的なものの見方、考え方とはずいぶんとちがった世界を発見する。そのときはじめて私たちは、自分の言葉、自分の文化、自分自身を客観的にとらえることができるようになる。

他者との比較なしには自己を知ることはできない。そのままでは見ることができない自分の姿を、他の言語・文化という鏡に映すことによって見るそこまでいった時、その外国語は「私の言葉」となったと言えるだろう。


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【ここからがA+Sのコメント!】 

外国語を大学レベルで学んだ方は、おそらく同じようなメッセージを受け取ったに違いない。特に、前半部分は良く聞く話だ。またこの話?と思った方もいるに違いない。

でも私がちょっとうなったのは、『言葉と文化をともに学びながら、新しい世界に向かって自分を開いてゆく』、という下りだ。

これまで私は外国語をツールとして持てば『世界が見えてくる』と思っていた。
実際、それがファーストステップなのだろう。

そして、最初に意味ある文章を自分から発することができるようになった時点から、世界に自分を開いてゆくことになる。ちなみに、これは、外国語に限ったことではなく、日本語においても同様だ。

でも、それは若葉マーク付きで運転しているのと変わらない。まだまだ全体が感覚的に見えていなくて、前方不注意。

プップー。あ、ごめんなさい!
ガシャ!ひ~、車体かすった~!

そうやって、自動車学校で教わった基本ルールを守る努力をしながら、大きな事故を避けながら、前進する。
ただ、恐る恐るでも、あるいは恐れはこれっぽっちもなく、運転してみた人が当然ペーパードライバーよりもうまくなる。

語学力というのも、そんなふうに多少失敗しながら習得するものだと思う。

そして自分を開いてみた見返りとして、他者を知り、自分自身を知る。

少し話はずれるが、先日、MBAの授業に潜り込み、Management Decision-Makingというクラスを受けた。後日内容についてはもう少し紹介したいと思うが、その際に「メタファーの重要性」が挙げられていた。

どのようなメタファーで世界を見ているかが感情面での状況理解を形作る。例えば、「やってたプロジェクト、ばっさり切られたぜ」と言った場合は、戦争メタファーでそのプロジェクトの世界を見ている。勝つか負けるか、というところに感情が自ずとフォーカスする。

それと同じ発想で、この「見えてくる」という受け身の姿勢から、「世界に自分を開いてゆく」という能動的なメタファーを用いることが、どれだけ語学学習に関する見方を変えるか。

自分の手で扉を開けたら、何だか明るい世界が広がってみえる。それが「世界に自分を開いてゆく」から私が見たイメージだった。

「相手が日本語が話せないから英語(あるいは他の言語)を学ぶしかない」

ではなく、

「英語を学ぶことで、違う言葉を通して自分を開いていくことで、より自分自身の考えも明確になる」、少し先にそういう目標を感じられるなら、語学学習の意味や価値がより深みを持つような気がする。(そして運転メタファーで考えれば、いつか自分も外国語をツールとして使いこなせるとも感じられるのではないか。)


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2012年10月3日水曜日

Write There Write Now(2012/10/3):『まさか!』のAnalyze + Summarize活動開始1ヶ月記念プレゼント


昨日書いた記事(「文化は心に根付くものーMondovinoを観て」)にも一部紹介させていただいたが、1年ぐらい前から「平成進化論」というメルマガを読んでいる。

きっかけは、友達が誘ってくれたロンドンでのセミナー参加。スピーカーとして鮒谷さんが参加されており、『この方が言っていること、分かりやすいし、とても共感できる!』と思い、セミナー後、鮒谷さんにちょっとだけ声をかけさせていただいた。

そしてその日のうちに20万人の読者層を抱えるという「平成進化論」メルマガにも登録。
あれから通勤時間に毎日メルマガを読むようになり、シンガポールに来てからは、通勤がないため寝る前の一服、じゃなくて、一読、という習慣に。

いいな、と思った記事は保存したり、メモをしたりして活用させていただいてきた。  何を隠そう、この「10分間の隙間時間を支える」Analyze + Summarizeプロジェクトも、私自身が日々の隙間時間の楽しみとして「平成進化論」などを利用していたことからアイデアを得たものなのだ。

そして、昨晩も、いつも通り、

そろそろ寝るか、

おっと、その前に

と、「平成進化論」を読み始めて、

ん?んんん?んんんんん??

なんと
どういうわけか「文化は心に根付くものーMondovinoを観て」が「平成進化論」メルマガに引用されている!!!

『いやいや、寝ぼけでしょう、間違えて自分の記事ファイルをオープンしてるのかな?』

何度か意味不明にメールを開け閉めしたり、自分の記事を読み直し、またメルマガに戻るなど、しつこく状況理解に努めたが、やはり、『文化は心に根付くものーMondovinoを観て』のことを紹介いただいている。

つまり、私の昨日午前10時ごろリリースの記事に、同日夜20時にはリアクトしてくださった、ということになる。(鮒谷さんのコメント内容は記事最後にコピー&ペーストで紹介している。)

しかも、もともと活動の中心としているFacebookグループはシークレットグループとしており、メンバーしかアクセスできない。ブログは、一部モバイルから直接みたいという人のためにアクセス制限なしでほぼ全記事(プチコメント除く)をリリースしている。ただ、モバイルからのビューイング最適化は多少意識しながらも、SEOなどは全くやっていない。ゼロ。『モバイルから読みたい』と言った人も実際はあまり活用しておらず、トラフィックは皆無だ。(そういう理由でブログも作成していたため、コメント送付先や連絡先すら明記しておらず、恥ずかしい限り。)

このような状況なので、なぜ故にこの鮒谷さんへ伝言いただいた「ささやき部隊」の方が私のブログにたどり着いたかはミステリーなのだが、先日、Analyze + Summarize開始1ヶ月記念にアイスクリームケーキを食べたばかりの私が、一方的に尊敬する鮒谷さんからの「まさかの1ヶ月記念プレゼント」をいただき、ありがたいばかり。

しかも、ケーキの上のチェリーとしては、今朝、もう一度ブログで「平成進化論」「人間国宝になりたい」で検索してみたら、Analyze + Summarizeの記事がGoogleの検索トップ。一時的なこととは承知しながらも、インターネットの力はすごいと実感せざるを得ない。

正直びっくり仰天だが、このまさかの1ヶ月記念のプレゼントに恥じない形で、これからも、細々とながら、Analyze + Summarizeを継続していきたい。初日から応援してくれた皆さんにも改めてここで感謝したい。これからも、見捨てずお願いします。

そういうわけで、今日はこのハプニングをご報告する内容となってしまったが、明日からは5回シリーズ(4回シリーズ+5回目はミニ対談の書き下ろし)の企画『コトバの重み』をリリース予定。本企画には、外部のトアル教授から無報酬で寄稿いただいた。

私自身はラッキーにも外国語をある程度幼いうちに学んだため、その後、これだけ海外に住みながらも、正直あまり外国語について意識的に考えたことはなかった。そのため、この企画の検討中にトアル教授の原稿を読み、大人の目線で今一度考えたとき、ちょっとうなった。

『日本+2カ国』で活躍する(現在している、あるいはすることになりうる)みなさんに、今一度「コトバの重み」というテーマでコトバだけではなく外国を学ぶということについて5日間、5分間考えてみていただく機会になればと思う。


◎以下、鮒谷さんのメルマガで紹介された内容を抜粋(注:メルマガから該当部分のみをコピー&ペースト)。

           *  *  *  *  *


┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃   メールマガジン「平成進化論」第3307号はここからです   ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━「平成進化論」━━━┛

(中略)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
<昨日の活動ダイジェスト>

グローバル資本主義の中に身を起きつつ、考えること

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こんにちは、鮒谷です。

ここ数年、私の中に伏流している大きなテーマの一つに

「グローバル資本主義の世界に生きつつ、

グローバル資本主義に飲み込まれぬ生き方を」

 というものがあります。

話は変わりますが、つい先ほど、

Analyze + Summarize

http://analyzesummarize.blogspot.jp/2012_10_01_archive.html


というブログに鮒谷さんのことが紹介(?)されているよ、
友人が連絡をくれました。

早速、とても興味深く拝読させて頂きました。

文章の中で少しメルマガのことにも触れて下さって
おりました。ありがとうございます!

またロンドン講演の際にも会場でお話しさせて
頂いていたとのこと、

改めてその節は、ありがとうございました!

この方が先日、ご覧になられたという、


<モンドヴィーノ>

http://amazon.co.jp/o/ASIN/B000EGDDMW/2ndstagejp-22/ref=nosim


という映画は私も一度、見たことがあります。


コロンビア大学の人類学部博士課程を修了された後、

現在、早稲田大学琉球・沖縄研究所客員講師、
早稲田大学などで兼任講師を務められている前嵩西一馬さんから、

「ダーウィンの悪夢」

とともに5年ほど前、紹介頂いたのです。

それをきっかけにして、私も見たのですが、
なかなかに考えさせられる映画でした。

考えてみると、その頃から、

「グローバル資本主義の世界に生きつつ、
グローバル資本主義に飲み込まれぬ生き方」

というテーマに問題意識を持ち、
以来、今に至るまで模索を続けてきたようです。

 当時はそんな言語化はできていませんでしたが。

(ちなみにこの試行錯誤の延長線上に、
この度の大学院受験があったのですが、それは余談)

そして上記のブログにおいては、

私が漠然と感じながらも深めきれず、
うまく言語化しきれずにいた思考について、

「こういう流れに向かうといいなあ」

と思わずにおれない、適切な表現をいただいた、
という感覚を(勝手に)持った次第です。

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ただ、長く栄えるためには、「売れていく」要素、
つまり商品への注力が必要だ。

キャピタリズムギラギラのワイン農家側にとっては、
フランスの老舗と対抗していくために、
当然ながら今は商品デザインで画期性を持たせる必要がある。

だから最初はそこへフォーカスするのは当たり前だ。

ただ長期的には、商品への注力と商品デザインの注力バランスの
舵取りをうまくやったものが生き延びるのだと思う。

だから、いつの日か、彼ら(の子孫)がフランスのワイン農家と
同じようなことを語る日が来るのではないか。

文化はそうやって育って根付いていくものだと思う。

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ここのところ。(勝手引用、すみません)

深く共感、共鳴いたしました。

また、文体も素晴らしく、
いずれこういう文章が書けるようになりたい、

と思わずにおれませんでした、、

どなたがお書き下さったものなのか分からず、
したがってご連絡先も分からなかったので、

こちらにて御礼、申し上げたいと思います。

ありがとうございました!
今後共よろしくお願いいたします。


Analyze + Summarize
http://analyzesummarize.blogspot.jp/2012_10_01_archive.html


(以下の本文は割愛させていただきました。鮒谷さん、ありがとうございました。)


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2012年10月2日火曜日

Write There Write Now (2012/10/02):文化は心に根付くものーMondovinoを観て

シンガポールでは映画館で放映される映画の種類が1パターンで、ハリウッドのブロックバスターが中心。中国、韓国、日本などの映画も選択的に放映されたりするが、ロンドンのICA(Institute of Contemporary Art)の映画館に匹敵するような、いわゆるアート系の人が行くようなちょっと変わった映画館をまだ見つけられていない。(ないのかもしれないと多少絶望的になってきている。)

そういうわけで、時々(仕方ないからというと失礼だが)フランス映画を見にフランス文化会館、アリアンス・フランセーズに行くのだが、先日、同会館のワインイベントの一貫として、無料で「MONDOVINO」というドキュメンタリーが放映されたので行ってみた。

このドキュメンタリー自体は新しいものではなく、2004年にリリースされたもの。自身ソムリエであるJonathan Nossiter4年間かけて40万ドルで制作したらしい。父親がワシントンポスト、ニューヨークタイムズの特派員であったため、彼自身はフランス、イギリス、ギリシャ、インドで育ったという、まさにグローバル人材だ。ハンディカムで撮られた映像であるため、ブレがすごくて多少みづらいものの、カンヌのパルムドールに選ばれたこともあり一時評判になった。が、これまで見に行くチャンスがなく、なんとまあ、8年後にまさかのシンガポールでの観賞となった。

グローバルに、資本主義的に、大きくワイン事業を展開するワインコンサルタントのMichel Rolland(フランス人)、そしてカリフォルニアワインのドン、Robert  Mondavi(アメリカ人)、そしてかの有名なワイン批評家Robert Parker(アメリカ人)。ワインの世界におけるグローバリゼーションの波と、効率化への賛同派、反対派の様子が描かれている。(もっとも、反対派をサポートするバイアスがかかっている内容だが。)

会社で働いた経験を持っていると、この資本主義的発想に当然ながら合意する点も多い。いい商品を作り、多くの人に楽しんでもらう。それにより売上も増加し、より良いものがどんどん作れる。自社商品を世界に流通できる。このグローバル化の流れは止められない。だったら抵抗なんかするよりも、うまく付き合うしかない。

一方で、このワインという心にしみた文化の哲学を語る「抵抗勢力」のワイン農家の言葉はひとつひとつ重い。敏腕マーケターのめまぐるしい展開に、『そんなのはワインじゃない』とばかりに抵抗する。とはいっても、完全に対立しているわけではなく、改善の必要性は感じている。『でも何だろう、この心に強く感じる抵抗感は』という苛立ちを彼らは感じているのだ。

ここで少し話は飛ぶが、たまたまタイミングよく、『平成進化論』の鮒谷さんの日刊メルマガ(101日付『人間国宝になりたい!』)に、このような言葉があった。(抜粋ではなく内容の一部をこちらでまとめた。)

商品への注力と商品デザインの注力バランスが100だと、腕は人間国宝級、作る商品は天下の逸品、けれども売り込むことは全くできない。

商品への注力と商品デザインの注力バランスが010だと、敏腕マーケター、でも一歩間違うと悪徳詐欺師。

「売る」のではなく、「売れていく」にはどうしたらいいのか。

(余談だが、ちなみに、この記事はご自身の「カリスマ性のなさ」(派手な演出のなさ)についてセミナー参加者にコメントされたということについて書かれたものという。私も一度ロンドンでセミナーに参加して、ちょっとだけ直接お話させてもらったが、本当に変な派手さがない、とても謙虚で、しかし人間的に魅力のある知的な方だった。ちなみに、ご自身は「商品95:デザイン5の人間国宝的な生き方」を目指したいとされている。)

ビジネスをしていると、売上、収益性、などと言った形で勝敗が見える。だから伝統だけに固執することは難しい。ただ伝統を重んじる国や文化で育ったものには資本主義的論理一本やりが果てしなく軽く感じられる。しかしこれまでの「売れていく」への努力が「売る」力に負けそうになっている

のだろうか。

短期的に見るとそうかもしれない。ただ、長く栄えるためには、「売れていく」要素、つまり商品への注力が必要だ。キャピタリズムギラギラのワイン農家側にとっては、フランスの老舗と対抗していくために、当然ながら今は商品デザインで画期性を持たせる必要がある。だから最初はそこへフォーカスするのは当たり前だ。

ただ長期的には、商品への注力と商品デザインの注力バランスの舵取りをうまくやったものが生き延びるのだと思う。だから、いつの日か、彼ら(の子孫)がフランスのワイン農家と同じようなことを語る日が来るのではないか。文化はそうやって育って根付いていくものだと思う。

この映画を見たあと、漠然と「何か書きたいなあ」と思った。でもタイトルはどうしようかな、と。「ワインのグローバル化」という直球にすべきか、あれこれ考えたが、多少飛躍するものの「文化は心に根付くもの」とした。ワインのグローバリゼーションに対し、どちらのポジションを取るにしても、このフランス人、イタリア人のおじいさんたち(おばあさんたちがあまり出演してなかっただけです)の人生哲学・ワイン美学には心を動かされるに違いない。特にワイン好きの人には美味しいドキュメンタリーだと思う。



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【参考記事】
Mondovino (IMDb)

平成進化論(該当記事はまだバックナンバーにアップされていませんでしたが、平成24101  平成進化論 3305号「人間国宝になりたい!」です!)

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