2012年10月16日火曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/15):企画を終えて


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 企画を終えて】


今回は初めての企画として「コトバの重み」というテーマで「外国語を学ぶということ」「翻訳者は裏切り者?」「創意を持つには」というテーマで仏文学の観点からトアル教授から記事を提供してもらった。少し固い内容で予定より長い連載となったが、何らかの形で5分の隙間時間の充実につながっていれば、と思う。

少し主題からずれたものの、対談中にグローバル化についても話題が及んだ。

そもそも、長い目で見たとき、人間の歴史自体が「グローバル化」の歴史とも言える。人間の活動は、当初はごく限られた狭い場所・地域の中だけで営まれていたのが、やがて領域を広げていき、ついには今日のように、人・もの・金・情報が国境をやすやすと越えて行き来するようになる。

グローバル化している、という状況を人に当てはめたとき、「自分の生きる(学ぶ、働く、活動する、etc.)場が、日本という国の中だけに限定されていないと考えている人、人と人との関係においても、日本人・外国人という区別にとらわれず、友人や同僚として付き合い一緒に何かをすることを特別のことと思わない人」という状況と捉えることができる。

その対極として「日本好き」「内向き」というような表現が使われたりするが、「グローバル」であるということと、「日本好き」「内向き」であるということは両立する。というよりも、外に向かうだけではなく、内側にも目を向けられるということ、自分の足下をしっかり見据えつつ、外に対して開かれているということ、それが望ましいあり方ではないか。

そうであるなら、『グローバルである』ことと対照されるのはむしろ『自己閉鎖』あるいは『外の世界・他者に対する無関心』と言った方が正しいかもしれない。もしも『グローバル人材』がひたすら外に向かうだけで内側には無関心であることを意味するのであれば、そこには自己を見失う危険が常につきまとう上、『他者に対する無関心』の状態にあるかぎり、自分自身を客観的に見つめることもできない。

「グローバルである」ということは、単に海外に長く住んだということや、言葉を自由に操ることができる、というだけではない。海外を知っているだけでも足りない。今回はコトバを軸にし考える企画だったが、そんなことも考えるきっかけとなった。


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2012年10月12日金曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/12):トアル先生との対談③


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談③】
  

(前号からの続き…)

A+S:《創意》というテーマの講義もありましたよね? それについて少し膨らませてお話しいただけませんか。

トアル:講義でも言いましたが、私は《模倣》あってこその《創意》と考えています。

 フランスの場合でいえば、17世紀以来、古代ギリシャ・ローマの学問・芸術を《模範》とする古典主義が、文学・芸術活動の規範となっていました。その絶頂期には多くの優れた作品が生み出されましたが、古典主義を代表する作家たちは、古典古代(つまりギリシャ・ローマ)をモデルとしつつ、彼らがいま生きている時代にふさわしい文学・芸術作品を創りだそうとしました。古代をただ真似ていただけではありません。古典主義の傑作をじっくりと吟味してさえすれば、それらがどれほど《創意》に満ちているか、よくわかります。(例を示して解説したいところですが、やめておきましょう。これ以上踏み込むと、何回分かの講義がさらに必要になりそうですからね。)古典主義の時代も、作家たちは《模倣》しつつ《創意》を思う存分発揮したのです。つまり、彼らは、新たな時代を彼ら流のやり方で作り上げたのでした。

 しかし、時代がくだるにつれ、古典主義の創造的活力が失われる一方、規範や約束事はそのまま残り、形骸化していきます。それに反旗を翻したのがロマン主義者たちでした。古典主義が古代ギリシャ・ローマをモデルにしたのに対し、ロマン主義はそれとは別の世界 ー 中世・ルネサンスの西欧世界、あるいはギリシャ・ローマ以外のオリエント世界 ー に創造的霊感を求めたのです。

 だからといって、ロマン主義者たちが古典主義の傑作から何も学ばなかったわけではありません。打倒すべき敵に立ち向かったとき、彼らが選んだ戦略は違うものでしたが、手にした武器は同じです。その武器とは言葉つまりフランス語でした。しかもその言葉は、古典主義時代を通じて磨き上げられてきたものにほかなりません。ロマン主義者たちは、敵の手から奪い取ったこの言葉という《武器》を受け継ぎながら、自分たちが見出した《新たなもの》つまり《創意》を付け加えていったのです。

 しかし、そのロマン主義も、まもなく写実主義に取って代わられます。より新しい美学・思想を主張する芸術が現れたわけです。それ以後、次々に《新しい》芸術運動が起こっては消えていきました。《独創性》を主張したロマン主義運動が、形を変えながら今日に至るまで続いている、と言ったらよいでしょうか。

 このような芸術の流れを見て行くと、規範となる《形》があるからこそ中身もあるのだということがわかります。そして、《型》や《形式》をしっかり身につけるための訓練が《模倣》です。ちゃんとした入れ物があって、はじめてその中にまともなものが入れられる、つまり《内容》がともなってくるし、やがて新たな工夫もできるようになる。そこに《創意》が生まれるのだと思います。

 独創性、独自性を主張するのがロマン主義以後の芸術運動の流れですが、それは《逆らうべき》模範や伝統なるものがあるからこそ言えることなのではないか、と私は思うのです。《新しさ》を標榜する人たちが、古典から学ぶべきことを学び、そこから新たなものを生みだす時、芸術における真の《革新》が成し遂げられるのではないでしょうか。


(次号に続く…)

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2012年10月11日木曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/11):トアル先生との対談②


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談②】
  

(前号からの続き…)

A+S:ところで、教授は、以前、娘さんから『いい歳のおじさんが愛だの恋だのについて語るってどうなのよ?』と、仏文学、しかも古典劇が専門であることを軽く批判されたというエピソードがあるそうですが。

トアル:愛や恋を語るのは、それが昔からフランス文学の大きなテーマだったからですよ。私はフランス文学(もっと厳密に言うと17世紀フランス演劇)が専門で、長いことフランス文学を講義してきました。講義のときは、当然、作品 ー 詩、小説、戯曲 ー についてふれることになるし、さわりの部分を学生といっしょに読んで解説したりもします。

 そこで取り上げる作品には、恋愛が中心テーマになっているものがかなりありますから、避けて通れないわけです。別に、恋愛を賛美するわけではありませんよ。まして、学生をけしかけたりはしません。フランスの小説や劇は、たいてい悲劇的結末を迎えます。だから学生たちには、うっかり真似をしたらこういうことになりますから気をつけてくださいよ、と警告を発するくらいです。

 フランス映画にも同じことが言えますね。不幸な結末、あるいはわりきれない終わり方をよくします。ハリウッド映画がいつもハッピーエンドなのとは大違いです。フランス語に C'est la vie.(セ・ラ・ヴィ ー それが人生というものだ)という言葉があります。人生、いつも思い通りになるわけではない、だから映画でもそのように描くのだというのがフランス流、逆に、だから映画ぐらいハッピーに終わりましょうよというのがハリウッド流ということでしょう。どちらが良いか悪いかではありません。流儀の問題、文化的個性の問題で、どちらを好むかは全くあなたの自由なのです。

 文学講義に話を戻しましょう。そこでは、愛について語るのではなく、たとえば作品に描かれている恋愛心理の分析(心理分析はフランス文学のお家芸なのです)を通じて人間の心の内のありようを考えてみたりします。また、それを描写している文章を取り上げながら、言葉ではあらわしがたい心のひだを、作家や詩人は言葉の《あや》をどのように駆使しつつ表現しているか、というようなことも確かめてみたりもするのです。すぐれた文学作品は、そこに描かれている人間の思い・言葉・行いを通じて、人間とはどういう存在か、そのありようをわれわれに教えてくれます。文学(そして演劇)は、人間を表現し描く、すぐれて人間的芸術なのです。

念のために付け加えておきますが、講義のなかで、愛だの恋だのについてだけ語ってきたわけではありませんよ(笑)。人間にはいろいろな面がありますから、文学作品を読みながら語るべき事はたくさんあるのです。

 第4回の講義で古典について語りましたが、いま話したことは、その補足にもなるでしょう。人間の微妙な《思い》や《考え》を、限られた言葉を使いこなしながら見事に表現している、それがまさにすぐれた作品、つまり古典なのです。


(次号に続く…)

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2012年10月10日水曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/10):トアル先生との対談①


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ最終回 トアル先生との対談①】
  

Analyze + Summarize(以下、「A+S」):トアル先生、4回分の執筆、ありがとうございました。

トアル先生:いやいや、以前書いた記事を再利用しただけなので、べつに苦労はありませんでしたよ。それはともかく、コトバの重みという少し固いテーマだったので、難しそうな話も入ってきましたが、不評は覚悟のうえで、あえてこういうものを投げかけてみました。期待に沿える内容になっていればよいのですが、どうでしたかな?

A+S:いえいえ、固いのが新鮮だというコメントもいただいておりますのでご安心を。ご自身の40年間を振り返ってどうですか? いまでもコトバの新鮮さを感じられますか?

トアル:《いまでも》ではなく、いまはなお一層、コトバの新鮮さを感じるようになってきました、と言うべきでしょうね。その理由を説明するため、ここでは言語能力・言語感覚という言葉を使いたいと思いますが、この能力・感覚は、長い時間をかけて鍛えられ磨かれていくものだからです。

 天才的数学者や詩人は、若くして才能を開花させることがよくありますが、たいていの専門分野は年齢を重ねれば重ねるほど能力が増していくものです。もちろん、年を取ると(とくに筋力などが重要な要素になる分野では)肉体的な衰えからくる《力の衰え》は避けられないでしょう。しかし、達人・名人と言われる人たちは、肉体的な衰えにもかかわらず、老いてなお《道》を極め続けます。日本の伝統芸などでは、よく知られていることですね。まして、文学や言葉 ー 言語能力や言葉に対する感性 ー のように、肉体的な衰えがあまり問題にならない分野だと、経験や知識の蓄積がことのほか重要になります。

 外国語の力、いわゆる《語学力》もそうです。確かに記憶力は、ある年齢に達した後、衰えていくと言われています。だから、外国語は若いうちに勉強をはじめることが強くすすめられているのです。外国語学習は、とくに初級レベルでは、単語や表現をまず暗記すること、言語によっては文字を覚えること、あるいは動詞の変化などマスターすることなどが基本となりますから、記憶力が衰えないうちに勉強をはじめる方が有利なことは確かです。

 しかし、語学の学習は、ある程度のレベルまで達すると、記憶力以外の要素がもっと重要になります。たとえば:
●その言語の基本構造を知ること(早い話が文法を徹底的に勉強すること)
●その言語の習慣や約束事を知ること(つまり歴史的・文化的知識を蓄えるということ)
●その言語を使う人々の思考パターン・行動パターンを知ること(それを知らないと、言われていることの意味がわからなくなることがよくある)
●文章 ー それもしっかりした、内容のある文章、すぐれた文章 ー をできるだけたくさん読むこと(言語感覚、言葉のセンスは、すぐれた文章に接することによって磨かれる)、などなどです。

 実はこれは、外国語学習についてだけではなく、母語の《言語能力》を鍛えるためにも言えることです。さらに言えば、外国語を学ぶことを通じて、はじめて母語を客観的に捉えることができるようになります。「外国語を知らない者は自分自身の言語について何も知らない」(ゲーテ)という箴言さえあるほどです。

 外国語であれ母語であれ、言語能力を高め、言語感覚を磨くには、時間がかかります。時間をかけて力をつける、磨きをかける、そうするうちに以前は見えてこなかったものが見えてくる、わからなかったことがわかってくる。修行という言葉がありますが、まさに修行を積んでいくとはそういうことでしょうね。

 ついでに言えば、若い人たちには、ぜひ外国語を、それも複数の言語を学んでほしいですね。外国語をひとつしか知らないと、それがまるですべてであるかのように錯覚してしまいます。外国語=英語、英語=外国語という錯覚に陥っている人がこの国には多すぎますね。その錯覚を矯正するためにも、複数の外国語を学ぶ必要があります。複数の外国語を学び、それらを自分の母語とも比較してみたとき、言語にはそれぞれの個性があり、互いに共通点もあるが違いもいろいろあるのだということが実感できるでしょう。言語の多様性、文化の多様性を知ることは、今日のようなグローバル化する世界ではとりわけ大切なことです。

(次号に続く…)

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2012年10月9日火曜日

連載企画①【トアル教授の5分講義】(2012/10/09):コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


【今回のテーマ:トアル教授の5分講義シリーズ第4回 コトバの重みー創意を持つには(古典を読む理由)】


「創意をもつには方法は一つしかない。それは模倣することだ。よく考えるには方法は一つしかない。それはなにか昔からの検討をへた思想を継承することだ。」(アラン『教育論』五四)

逆説だろうか?

そうではない。前半部で言われていること、とくに「模倣」の大切さは、稽古という言葉になじんだ日本人なら誰でも理屈ぬきで知っていることだ。稽古の基本は「型」の修得にあるが、型は真似ることによって身につけるものである。それが「修業」の常道であり、また型を極めることによって型を抜け出ることができる――つまり模倣の究極にこそ創意がある――という考え方も、われわれには無理なく受け入れられることなのである。

では、後半部は何を言わんとしているのか?

古典に親しみ、古典から学べ、ということだろう。時間を超えて現在にまで伝えられている過去のすぐれた書物が「古典」である。そこには、人間が昔から考えてきたこと、問題にしてきたことが、選びぬかれた言葉や表現によって記されている。人間にとって最も大切なことは何か、その問題に取り組むにはどうしたらよいかを学ぶための最良の手本が古典なのである。

古典はまた、思考力だけでなく、言葉を鍛えるための良き手段ともなる。人間は言葉でもってものを考えると同時に、言葉によって自分の考えを表現するからである。われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる。逆に言えば、言葉で表現できないうちは、まだ考えになっていないということだ。

「良書を読むことは、その著者である過去の時代の最もすぐれた人々と語り合うことであり、しかも彼らがその思想の最上のものをわれわれに示してくれる、よく準備された談話でもある。」(デカルト『方法序説』)

だから、つとめて古典に親しもうではないか。それこそが、よく考える方法を身につける最も効果的な訓練なのだから。

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【ここからがA+Sのコメント!】 

本シリーズ最初の『外国語を学ぶということ』のコメントで、Management Decision-Makingというクラスに参加したことに言及したが、『われわれが思いつくさまざまなことは、それが言葉でもって明確に表現されたとき、はじめて「考え」とか「思想」と呼ぶに値するものとなる』という一文を読みながら、今回の講義においてもManagement Decision-Makingとこの関連性を見いだした。

これを機に、以下、Management Decision-Makingの授業で学んだポイントを紹介したい。
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Management Decision-Making:7つのポイント

●Spotlight:人は何かを決断する際、自分の知識や経験から『見えている部分』、要するにスポットライトが当たっている部分にフォーカスする傾向が強い。実はこのスポットライトが当たらない部分にどれだけ自分の意識を傾けることが出来るかが、決断を下す際に重要となる。

●The Linguistic Relativity Hypothesis(言語相対性仮説) : 言葉/言語が世界観を型取る。『The limits of my language are the limits of my world.』(Ludwig Wittgenstein)言葉の広がりが世界の広がりを意味する。

●Metaphors:メタファーは感情面での状況理解を形作る。自分がある状況をどのようなメタファーで捉えているかを理解し、メタファーを変えることだけでも物事の見え方が変わってくる。

●Confirmation bias:人はすでに正しいと思うことを立証するデータや情報を持論の正当化に利用するというバイアスがある。
また、

●Belief persistence:一度信じたことはなかなか忘れられない。

そうであるが故に、
●Naming the cow:自分が(決断の場において)繰り返し遭遇する同じ課題・問題には、名前を付けることで、意識的に見分けがつけられるようにしよう。(『Naming the cow - (多くいる)牛に名前を付けていく』というのはブラジルの表現らしい)

●Meta-knowledge:自分が何を知るかについての知識(メタ知識)は重要。『You overestimate the precision of your knowledge.』自分の知識の限界を知り、スポットライトの当たらない部分があることを認識し、謙遜になることも重要。
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言葉を用いるということは、漠然とした考えを明確化し、状況理解を促すことになる。また、必要な場合はそれに対して具体的にどのようなアクションを取るか作戦を立てる第一歩となることとなる。自分(の傾向、性向)を理解する、セルフノレッジ獲得という根本的な部分で努力を惜しんで、ビジネス書籍やセルフヘルプ系の書籍でテクニックをどれだけ取り入れたとしても、うわべだけの取り繕いとなってしまう。とはいっても、自己理解というのは一日ウンウン考えたから得られるものではない。長い時間をかけて、去年よりも今年、今年よりも来年、と時間の経過に助けられながら得るものだ。だからこそ、まずはその重要性を意識的に認識することが大事なのではないか。

そして新しいものを創造していくためには、まずは過去から生き残ってきたものをじっくり吟味し、そこで得られるエッセンスを十分に吸収してまずは『型』を作る。それが新たなものを生み出す基盤を作る。文学であれば古典を読むことがそれに相当する。(この点については、明日以降のトアル教授に対談でも少し補足してもらっている。)

高校生のころ読んだ本も、大人になった今読むと、その深みに圧倒されることがある。直結していないようで、文学に親しむことも実はビジネス面での自分の成長を促すことになるということだし、私もビジネス本は少し横に置き、今一度、昔好きだった文学をまた読もうという気になった。

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